オリエンタルランド社創立2年目の1961年に、ディズニーランド誘致の発案者である社長の川﨑は、アメリカのディズニーランドの視察とウォルト・ディズニー・プロダクションへの表敬訪問をしたが、全然相手にされず、副社長と立ち話した程度で帰国せざるを得なかった。
この時期のオリエンタルランド内ではディズニーランドだけではなく、他の海外のテーマパーク、遊園地を誘致する道も模索されていたが、発案者の川﨑は東京ディズニーランド実現への熱意を持ち続けていた。
ライバル三菱は富士山麓に誘致
1972年に再びアメリカのウォルト・ディズニー・プロダクションを訪問。交渉相手の態度は相変わらず尊大だったが、交渉の糸口まではたどりつくことはできた。
実はこの時期、米国ディズニー側には三菱グループから、富士山麓の敷地にディズニーランドを誘致するという話も舞い込んでいた。
そんな中、1974年には米国ディズニー側が来日。オリエンタルランド側は、当時はめずらしかった大型バスのサロンカーを用意し、ディズニー一行を現地に案内。そして埋立地を上空からヘリコプターで視察するという、当時としては破格のプレゼンテーションに出た。
それが功を奏し、東京に隣接するという“地の利”や、敷地の三方を海に囲まれた非日常性を感じる立地などのプラス要因を実感してもらうことに成功。オリエンタルランドと米国ディズニーの基本合意が成立し、浦安の地に東京ディズニーランドが建設されることが決まった。
一方の三菱グループ側の富士山麓でのプロジェクト案だが、富士山の景観の美しさでディズニーランドが霞んでしまうという見解もあり、浦安が選ばれたという。
その後、米国ディズニー側とのロイヤリティをめぐる交渉、国内の銀行や協賛企業との交渉で何度もプロジェクトは暗礁に乗り上げたが、数々の企業人、財界の大物など、東京ディズニーランドを実現させたいという人々の思いにより、1983年の開園が実現した。
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