その広大な土地に、アメリカのディズニーランドを誘致しようと発案したのは、京成電鉄社長を務め、オリエンタルランド社初代社長となった川﨑千春だった。
京成電鉄には、大正末に開園した遊園地「谷津遊園」を経営していた実績もあった。川崎は、1958年のアメリカ出張時、開業間もないディズニーランドを視察して感銘を受け、千葉県我孫子市の手賀沼地域にディズニーランドの誘致を画策したが、諸般の事情で計画を断念したという経験もあった。
一方で、浦安沖の埋め立てを進めるには、漁業を生業とする住民と交渉し、漁業権を放棄してもらわなければならない。そこで、三井不動産からオリエンタルランドに参加していた江戸英雄(後の三井不動産社長、会長)が白羽の矢を立てたのが旧知の髙橋政知だった。

漁師たちと膝詰めで交渉
漁師相手に交渉を進めるには、酒が強い漁師たちと酒宴を囲みつつ説得するしかない。江戸英雄が髙橋政知を見込んだのは、髙橋が、いわゆる大酒飲みの酒豪だったからだという。
その髙橋は、日々浦安の漁師と宴席を持ち、時には沖まで自ら小舟を漕いでいって漁師たちとの交渉にあたり、次々に了承を取り付けていった。
髙橋は、父が各県の県知事などを務めたエリート官僚。財界の大物の娘の婿養子に入り、渋谷・松濤の高級住宅地に広大な邸宅地を所有していたが、その土地も、浦安埋め立て交渉のための飲食費や経費にするため売却するほど、この事業にのめり込んでいたという。
この東京ディズニーランド開業という大事業は、発案者の川﨑、漁業権放棄の交渉を進めた髙橋、三井不動産の江戸英雄、この3人が揃わなければ実現しなかったと語りつがれてきた 、まさに昭和の豪傑経営者、企業人が揃ったからこそ実現した事業だったということだ。
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