なぜ、東京ディズニーランドは、東京湾岸の漁師町だった浦安に建設されることになったのか。
それは、東京ディズニーランドの開園より5年前の1978年に、なぜ都心からあんなに遠い千葉県の成田に新東京国際空港が開港したのかという“謎”とともに、当時10代だった私が不思議に思ったことだった。
そして改めて今、その歴史を調べてみると、意外な事実を知ることになる。
当初は工業地帯にする予定だった
東京ディズニーリゾートを運営する会社として知られている「オリエンタルランド」。この会社は、東京ディズニーランドを設立するために創立されたのだとばかり思い込んでいたのだが、実はそうではなかった。そもそも、東京湾の浦安沖の埋め立てから行っていたのだった。
オリエンタルランド社の設立は1960年。当時の千葉県知事は、東京湾での漁業が公害により立ち行かなくなったことで、地域内の漁民に漁業権を放棄してもらい、浦安沖の遠浅の海の土地約200万坪を埋め立てる政策を進めていた。
当初は埋立地に工場を誘致し、京浜工業地帯に匹敵する規模の京葉工業地帯の建設を推進していたが、1956年に首都圏整備法が制定されたことにより、工場の誘致は不可能に。そこで県は、新たな埋立地には住宅やレジャー施設などを誘致することを構想した。
そこで、「浦安沖の海面を埋め立て、商住地域の開発と一大レジャーランドの建設」を目的とする会社として設立されたのがオリエンタルランドだった。
創立時の出資者は、千葉県内で船橋ヘルスセンターを経営していた朝日土地興業、京成電鉄、そして千葉県内の五井や市原などで埋め立て事業を行っていた三井不動産だった。
大手不動産会社である三井不動産は、戦後、千葉県の五井、市原の他、堺、瀬戸内、四日市、大分湾、博多湾、鹿島など、全国的に湾岸埋立事業を進めていた。
千葉県からの埋め立て免許には、埋め立て地の一部である60万坪の土地にレジャー施設を建設しなければならないという条件がついている。しかし60万坪とは、従来の日本の遊園地を作るにはあまりにも大きすぎる面積だった。
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