「うちは3兄弟なのですが、僕は長男だったので、『金銭的に難しいから浪人は絶対するな』と言われていました。それでも全ての大学に落ちてしまったので、真面目に親に東京理科大学の夜間コースに行くことをすすめられて、出願する寸前でした。浪人が決まった瞬間が、いまだに人生で経験した一番の絶望ですね。でももう一度チャレンジをしたかったので、最終的には親に頭を下げて、浪人をさせてもらいました」
浪人は絶望の1年だった
浪人の日々は、「絶望の1年間だった」と振り返る川﨑さん。駿台予備学校のお茶の水3号館で東大を目指した浪人の日々は、「感情が消え失せていた」と語ります。
「大学生にはなれると思っていたので、その状態から『また1年勉強しなくちゃいけないの?』という頭が真っ白の状態から始まった浪人生活でしたね。通っている予備校は明治大学の近くだったのですが、そこに楽しそうに通っている人を見て、『俺は何してるんだ』と思っていました。浪人が嫌すぎて、帰りの電車で泣くこともありました。この1年間、自分は何してるんだろう?という思いがずっと消えず、全く楽しいとは思えない1年でした」
この浪人の1年がラストチャンスだと思った川﨑さんは、ひたすら勉強だけをしようと決めて予備校生活を送ります。
「絶対に馴れ合わない、遊ばない」と、友達を作らないことを決めて、予備校が終わったらすぐに地元に帰って公民館で勉強するという毎日をひたすら繰り返した結果、新しい友達は一人もできなかったそうです。
「たまに神保町に行って、建築の本だけ集めている本屋に寄っていました。そこに行くことで、建築家になりたいという希望だけは決して諦めないようにしていました」
ストイックな生活を送った川﨑さんは、最初の模試でDだった東大の判定も、最終的にはBまでいくようになったそうです。
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