なぜ「寅さん」は新幹線に乗らないのか 「雑談」が許されない「感情を抑え込む社会」と「コンプライアンス」の正体

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和気藹々とした職場
職場から失われつつある「雑談」の光景(写真:EKAKI/PIXTA)
現代社会から失われつつある「雑談」。かつては職場に欠かせないものだった雑談は、なぜ姿を消したのでしょうか。そして、その喪失は私たちに何をもたらしたのでしょうか。思想家の青木真兵氏が、歴史学者アグネス・アーノルド=フォースターの新刊『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか:ある危険な感情の歴史』をひも解きながら、そのヒントを探ります。

心の拠り所としての「ノスタルジー」

何を隠そう、私は「ノスタルジー」が大好きである(本書ではノスタルジアと記載されるが同じ意味)。

ノスタルジアは世界を滅ぼすのか: ある危険な感情の歴史
『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか:ある危険な感情の歴史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら

ノスタルジーをとある辞書で調べると、「『郷愁』や『懐古』『追憶』といった、過ぎ去ってしまい戻ることのできない時代や時間を懐かしむ気持ちのことを意味する表現」と出てくる。今はなきものを懐かしむ、あの感情のことだ。

また私は「せつなさ」にも近しいものを感じている。故渋谷陽一氏によるとサザンオールスターズは「せつなさの日本基準」なのだというが、何となく分かる気がする。

過ぎ去ってしまい、すでにそこにはないのだが、自分の心の奥のどこかには確かに残っている。そのような懐かしく、安心する気持ちを思い起こさせてくれるもの。それが私にとってのノスタルジーなのだ。

このようなノスタルジーを感じるもの、こと、場所、時間だけを求めて生きているようなところが、私にはある。

良い社会をつくりたいと考えていても、どうしても目は過去の方を向いている。私が山村に越した理由もここにあるのだと思う。

都市での生活があまりに経済原理に支配され過ぎていて、お金があれば何でも買えるという自由がある一方で、病気をしたり体調を崩したり、事故に遭ったり不測の事態に陥ったりして、そこから溢れてしまうと一転してその自由は失われてしまう。

なぜこのような社会が成立してしまったのだろう。その謎を解くために、都市が成立する以前の状態を知りたい。そのような動機から山村に越してきたとも言える。

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