老中就任からわずか6年…松平定信に異を唱えて解任に動いた「側近」の意外な正体

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イメージ(写真:foly / PIXTA)
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NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第38回は、松平定信が側近に異を唱えられながらも、路線を変えなかった蝦夷地政策について解説する。
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憎んだ意次の政策をも取り入れた定信

老中として権勢を振るった田沼意次のことを、よほど憎んでいたようだ。松平定信は、将軍に差し出した意見書で「2度も田沼を刺し殺そうとした」と、わざわざ胸中を告白している。

そんな定信だから、いよいよ自分が老中首座になったときには、意次とは正反対の政策を打ち出したことは、言うまでもない。意次が商工業を重視したのに対して、定信は農業重視の政策に転換。また、田沼時代の自由な気風のなかで育った町人文化を、定信は厳しく取り締まり、しきりに倹約を推奨したのである。

そして定信が何よりも危機感を持ったのは、田沼政権が醸成した「金を儲けることにこそ価値がある」というムードである。定信は武士たちに「学問と武芸に励め」と文武を奨励し、武士の風紀や気風を取り戻そうとした。

だが、その一方で、意次から引き継いでいる政策も意外と多い。意次といえば、株仲間を奨励することで商工業を活性化させながら、商工業者からの運上金、冥加金を徴収することで、歳入増に取り組んだことで知られる。

それに対して、定信が廃止した株仲間と運上金はごくわずかで、それも改革当初のみである。一部を除いて、株仲間も運上金も田沼時代とほぼ変わらずに存続させた。

また、意次は貨幣の利便性を高めるために、金貨中心の東日本と銀貨中心の西日本の両方で使える「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)を大量に鋳造して流通させた。定信が老中になると、南鐐二朱銀の鋳造は停止されたものの、発行済の二朱銀については永代通用として保証している。

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