さらに、大名や旗本、富裕商人、農民に対して、年1割前後の利子で公金を貸し付ける「公金貸付」も定信は取り止めることなく、意次から継承して引き続き行っている。
融通が利かないカタブツというイメージが強い定信。しかし、恨みさえ抱いている意次の政策であっても、生かすべきものは生かす、そんな「実をとる」したたかさも持ち合わせていた。
定信が蝦夷地の開発に消極的だったワケ
だが、そんな定信が、周囲の反対意見を押し切ってまで、断固として意次から継承することを拒否した政策がある。それは蝦夷地の開発だ。
意次は、工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』に感化されて、ロシアが南下して攻めてくる前にいっそ交易して、良好な関係を築くのが得策だと考えた。そのためには、蝦夷地を支配していた松前藩から領地を取り上げて、直轄化を進めなければならない。
意次は2度にわたって蝦夷地の調査を行ったうえで開発を計画したが、意次が失脚すると頓挫。老中となった松平定信によって、蝦夷地政策は中止されることになった。
そんななか、寛政元(1789)年5月、蝦夷地のクナシリ地方とメナシ地方で、アイヌが蜂起するという事件が起きた。強制的に過酷な環境下で働かされ続けたことで、アイヌの不満が爆発したようだ。松前藩の足軽・竹田勘平や、松前藩からこの地を請け負っていた商人の飛騨屋・武川久兵衛らの部下など、約70人の倭人が命を落とすことになった。
松前藩は幕府に暴動を報告しながら、ただちに鎮圧することに成功したが、幕府はロシアの関与を疑い、出兵の準備も進めていたようだ。
そんな事態を受けて、老中たちの間では、蝦夷地開発の議論が持ち上がることになるが、定信は蝦夷地の開発に反対の姿勢を貫いた。ロシアが目論んでいるのは、武力による侵攻ではなく交易だとして、むしろ蝦夷地を不毛な地のままにしておいたほうが、ロシアの脅威を防げると、定信は考えたのである。
自伝『宇下人言』で定信は「いま蝦夷に米穀などおしえ侍らば、極めて辺害をひらくべし、ことにおそるべき事なり」と書いている。新田開発を行って、現地のアイヌ人に農業を教えることで、かえって外敵が侵入しやすくなってしまう。つまり、これまで通り松前藩に任せておいたほうが、日本は安全を保てる、というのが定信のスタンスだった。
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