常にイライラ、「べらぼう」の松平定信像は本当か 朱子学で「アンガーマネジメント」を学んだ名宰相
この結果、白河藩では餓死者ゼロという、驚異的な実績が生まれたのであった。
こうした政策を迅速に実行できたのは、前に挙げた著作に見られる研究成果があってのことだった。
またこの時に行われた「質素倹約」について、定信は「倹約とは金と米を散らすためにやるのだ」と述べており、事実、徹底的にきりつめて浮いた分は、全て領民の生活再建にあて、むしろ経済環境が改善するまで放出し続けている。
こうした定信の政治は、大先輩である米沢藩主(現・山形県)上杉鷹山(1751~1822)、熊本藩主(現・熊本県)細川重賢(1721~1785)との交流で培った見識も与している。
彼らはいずれも折衷学派の細井平洲(1728~1801)や朱子学者の秋山玉山(1702~1764)をブレーンとしており、独自の地方再建を行っていた。
これがモデルケースとなって、各地で「藩政改革」の波が起こる中、定信はさらに独自の手法を考案し、抜きん出た成功を収めたのである。かくして、白河藩は全国の藩から注目を浴び、一躍地方再生の旗手となった。
これに連動して、定信の周りに集まった大名たちと勉強会が開かれるようになり、自然とグループが結成される。いわば「全国知事会」の趣があるが、そこでは朱子学を中心とした儒教の研究に加え、その応用編としての政策研究が行われている。
要するに、定信は幕府中枢が行う日本全体の政治ではなく、地方再建に全力を傾注していたのであり、宮廷政治の趣を見せている幕府の政権争いに参加する余裕などなかったのである。
「寡黙な求道者」としての定信
そうした中、幕府では一橋治済(1751~1827)を起点とした田沼の失脚が起こり、「天明の打ちこわし」を決定打として、30歳の若き定信が老中に任命される。定信が老中に任命されたのは藩政改革の手法が評価されたことが大きい。そして、それはこれまでの幕府政治が限界を迎え、藩政改革の手法を取り入れようとした結果でもあった。
こうしてみると、定信に田沼政治への不満がなかった訳ではないが、常に幕府中枢の政局を窺って声高に自己主張するような人物ではなく、むしろ現実の問題を一つひとつ解決しつつ、立場と役割に徹することで、社会の調和と心の安定を実現しようとする、寡黙で求道的な人物像の方が際立つのである。
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