常にイライラ、「べらぼう」の松平定信像は本当か 朱子学で「アンガーマネジメント」を学んだ名宰相

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ただ、年頭挨拶で江戸城に登城した際には、先輩にあたる大名に贈り物をして指導を受ける慣例だったが、定信はそれを拒否して何も教わらないまま儀礼をやり遂げて帰っている。

これが唯一の批判らしい批判であった。

その後は21歳で家臣の南合蘭室(生没年未詳)と読書を競い合い、38部、434冊の書物を一年で読破したという記録があり、また領地である白河(現・福島県)を訪れて現地を詳細に視察し、政治的慣習や民の暮らしぶりをつぶさに記録している。

こうした成果として、22歳の時に『求言録』、24歳で『国本論』『国本論付録』『正名考』、25歳には『修身録』『政事録』を相次いで著しているが、これはみずからの政治思想と政策理念をまとめたものであった。

白河藩を襲った「天明の大飢饉」

その研究成果を確かめる機会はすぐに訪れる。すなわち24歳の時に起こった「天明の大飢饉」がそれで、冷害や浅間山の噴火とあいまって、全国で90万人の犠牲者を出した未曾有の大災害は、東北地方で最も甚大であった。

これを契機に久松松平家の家督を継いで白河藩主に就任すると、電光石火の速さで対処する。

彼はまず家中に向けて「凶年は珍しくなく、今までなかったのが幸運だったのだ。驚くべきことではない。凶年には凶年の準備をすれば良い。さあ、この機会に乗じて倹約質素の道を教えて盤石のかためをしようではないか」と檄を飛ばした。

そして、隣の会津藩(現・福島県)に依頼して米を緊急輸送してもらい、江戸の白河藩で貯蔵していた米を後日支払うことで、当面の食糧確保を行った。

また、27才になると白河に向かい、藩の要職に「白河家政録」と名づけた政治方針の書を配付して意思統一を図る一方、みずから勘定所と台所の帳簿をチェックし、出納の合理化を指示。

さらに、藩内の米を持ち出すこと、商人が米の価格を操作すること、藩士による米の売買、金貸し、高圧的な税の取り立てを全て禁止。

藩御用達商人に命じて金と米を供出させ、越後(現・新潟県)の大商人から米を買付け、江戸からは味噌、塩、干葉、あらめ、干し魚などを輸送し、領内に配布した上で、翌年分の種代となるお金を配付し、病気の者には養生法を周知させた。

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