常にイライラ、「べらぼう」の松平定信像は本当か 朱子学で「アンガーマネジメント」を学んだ名宰相
松平定信が御三卿の一つである田安家の生まれで、後に久松松平家に養子に出されたというのは、周知の通りである。

そもそも定信は田安家の七男であり、夭折した兄弟を除いても3番目の男子であったため、小さい頃から専属の教育係もつけられず、食べ物や着る物の好みも言えず、私物と言えばこっそり乳母にたのんで作ってもらった紙入れが一つであった。
他の兄姉が養子先や嫁ぎ先が決まって熱心に育てられる中、彼は放っておかれたため、館の中をうろうろして部屋の隅に座り、家臣たちの話に聞き耳を立てながら学んでいたという。
7歳になると朱子学者である大塚孝綽(1719~1792)から儒教を学び、みるみる内に学力をつけ、13歳で『自教鑑』をはじめとする書物を書き上げている。
以来、定信の学問に対する意欲は終生衰えず、138部の著作が存在し、学者顔負けの学識を誇ることとなる。
孤独な少年が選んだ「最強の武器」
この時、定信の軸となったのが朱子学であったことは重要な意味を持つ。
というのも、朱子学は日常をとりまく物事が「それは何のために行うのか」「そのためには何が必要なのか」という「理」を徹底的に分析しながら、知性の高まりとともにみずからの「情」を限りなくコントロールして、みずからの心を聖人のレベルまで高めていく学問だからである。
つまり、徹底して物事を合理的に判断しつつ、倫理的なふるまいをかぶせていくことで、社会の調和と心の安定を同時に達成しようとする学問が朱子学なのである。
中国や朝鮮において、朱子学が体制教学として機能し、むしろ非合理的な判断や社会の抑圧を生んだというのは一理ある指摘だが、日本においては本来の文脈で健全に機能していたと言われる。
定信の自伝である『宇下人言』や、儒教の得失を語った著作群を見ても、彼が本来の文脈で朱子学を理解していたことがうかがえる。
つまり、幼少期の定信はみずからの心を限りなく聖人の高みへと引き上げようとしたのであり、具体的には立場に則した言動を心がけ、自分の役割を研究していく内に、少しずつ能力を磨き、判断力を高め、強靱な意志を養おうとしていたのである。
それがどこか「厄介者」のような扱いを受けた、彼の精一杯の自己主張だった。
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