常にイライラ、「べらぼう」の松平定信像は本当か 朱子学で「アンガーマネジメント」を学んだ名宰相
14歳の時に父が没し、後を継いだ兄の治察は定信をこよなく可愛がった。
定信も兄を父のように慕い、ようやく居場所ができた心地がしたものの、その兄も定信が17歳の時に亡くなってしまう。
それと前後して久松松平家に養子が決まった定信は、兄を失った悲しみ、実家がなくなるという不安に苛まれつつ、兄治察の母であり田安家を一人で守っていた宝蓮院に仕えた。
亡くなった治察の部屋はそのままにされ、定信はまるで治察が生きているかのように部屋に挨拶したという。
定信は細やかな優しい配慮で周囲を慰めたが、その反面、ささいなことで激怒し声を荒らげて周囲を困らせる。
この対照的な言動は、周囲を慮って抑圧した自我が噴出したものであり、優しさが抑圧の原因になっていた。定信は自分のそうした性格を思い詰め、「怒りの感情のない人間になりたい」と述べている。
これに対し大塚孝綽らが身体を張って諫め続け、さらに学問に邁進した結果、18歳のある日、「洗って濯いだようにきれいさっぱりなくなった」という気持ちになり、以後、激怒するということがなくなった。
とはいえ、記録によれば大名や老中になってからも、怒ると声が低くなるという描写があるため、怒ることがなくなったというより、どのような状態に置かれても、感情のコントロールができるようになったということであろう。
この自制心を養ったのが、他ならぬ朱子学だったのである。
田沼意次との意外な関係
こうした経緯で久松松平家に養子に入った定信は、自分の立場に徹して養子先の事情をつぶさに見聞し、役割を果たそうと努力している。
久松松平家は和歌に通じた家柄として知られており、田安家もまた和歌や国学に秀でた家柄で、賀茂真淵(1697~1769)を雇用していた。
定信自身も当時和歌で有名な萩原宗固(1703~1784)を師匠としていたため、6000~7000首の和歌を詠んで研鑽している。
また、久松松平家は幕府内での家格上昇を狙っていた。こうしたことから、後に久松松平家の家督を継いだ定信は、田沼意次に対しても好意的な態度を示し続け、田沼の繁栄を言祝ぐ和歌を附した贈り物をしていたことが確認できる。
つまり、定信が肩を怒らせて田沼を敵視し、表だって敵対することはあり得ない。それは久松松平家の悲願である家格上昇を断念することにつながり、立場に徹しようとする定信には取り得ない選択肢だからである。
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