「日本語を勉強して。それが未来の言語だから」吉本ばななや三島由紀夫を訳した仏人女性。《55年前の大阪万博》の年に開けた数奇な翻訳人生

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ドミニクさんが16歳のときに飛び級でソルボンヌ大学仏文科に進学した際は「文学を勉強するなんて、将来はどうやって生きていくの?」と心配したが、その後100以上の言語を学べる東洋語学学校(現・フランス国立東洋言語文化大学)で学ぶことを決めたドミニクさんに「日本語を勉強してください。それが未来の言語ですから」と母はアドバイスした。1970年。大阪万博の年で、アジア初の万博でもあった。

大阪万博 岡本太郎
パリのセーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館では日本の万博開催にちなんで、1970年の大阪万博で太陽の塔を作った岡本太郎の展示をしていた。10年ほどパリに住んでいた岡本太郎がフランス語でインタビューを受けているビデオは、フランス人も聞き入っていた(筆者撮影)

日本語を学び始めたドミニクさん。

その3年後、1973年には青山学院大学仏文科専任講師として日本で働き、パリに戻ると、親戚の建築家から頼まれた日本の技術に関する本の翻訳で10年ほど生計を立てた。

ある日、翻訳の依頼が突然入った。その本は中村真一郎の著書で1978年に出版された長編の書き下ろし『夏』。実は、中村さんとは不思議な縁があった。ドミニクさんが好きなフランスの詩人・ジェラール・ド・ネルヴァルの日本語翻訳を中村さんが手掛けており「まだあまり評価されていなかったネルヴァルの詩をいち早く日本人が訳したとは!」と衝撃を受け、大学時代に中村さんについての論文を書いたことがあったのだ。

『夏』が、初めての翻訳文学作品となった。「すべてご縁で成り立っている」とドミニクさん。その後、井上靖の翻訳依頼が入り、そして1997年にパリ日本文化会館がオープンして、通訳や展覧会のカタログの翻訳が増え、芝居や能に関する仕事も、ゆっくりとしたペースで拡がっていった。

ドミニク・パルメ
中村真一郎の『夏』は、青山学院大学の先生に添削をしてもらった。隅から隅まで小さな字で、日本の文化背景や言い回しなど、細かく注釈を入れてくれたそう。その後、1995年に小西国際交流財団の日仏文学翻訳賞を受賞(筆者撮影)
中村真一郎
中村真一郎の『夏』のフランス語版は、この厚みだ(筆者撮影)

老若男女が列に並んだ、吉本ばななさんサイン会

1997年には、パリで吉本ばななさんのサイン会があった。

ドミニクさんはデビュー作『キッチン』を翻訳した縁で、通訳として同行。目の前には大行列ができていた。

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