【戦後80年】「シベリア抑留」終わらない戦後決算/死亡者の3割は未特定、経験者の平均年齢102歳で求められる解明の加速

ソ連領の港町ニコラエフスク(現ロシア・ニコラエフスク・ナ・アムーレ)。冬は零下20度にも達する極東の地で、与えられる食物はわずかな黒パンと雑穀の少し入ったスープのみ。寒さと飢えに常に苦しめられる毎日だった。
「食料が少なくて。とにかく腹が減って、眠れない。この状態が続くと栄養失調になる。朝起きたら仲間が硬くなって動かなくなっていたこともよくあった」
都内に住む佐藤秀雄さん(98)は、太平洋戦争が終わったはずの1945年8月18日、ソビエト連邦軍が日本軍と千島列島東端で激突した「占守島の戦い」に、通信兵として参戦した。ソ連軍の捕虜となり、連れていかれたニコラエフスクでの強制労働の日々をそう振り返る。
いわゆる“シベリア抑留”である。
軍人、民間人約60万人が連行された
シベリア抑留者支援・記録センターによると、1945年8月15日の太平洋戦争終戦時、満州や朝鮮、南樺太(サハリン)などに滞在していた高級将校を含む軍人や民間人約60万人がシベリアをはじめソ連各地へ連行され、酷寒の中で強制労働を強いられた。
民間人では女性や子供、軍人には朝鮮・台湾出身者らも含まれていたという。経済界では、大本営陸軍元作戦参謀で伊藤忠商事元会長の瀬島龍三氏が11年にわたって抑留されていたことで知られる。このうち約1割の6万人以上が亡くなったとされるが、現在でも詳細は明らかになっていない。
同センターは、ソ連のスターリンが1945年8月23日に「日本軍捕虜50万人の受け入れ・配置・労働使役について」という秘密指令に署名したことから、毎年8月23日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で追悼のつどいを開いている。戦後80年の今年も開催し、抑留経験者や遺族、国会議員など約180人が参列し冥福を祈った。
シベリア抑留が特殊なのは、日本が敗戦を受け入れポツダム宣言を受託した終戦後に起きた出来事だということだ。
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