実は「国引き神話」からも読み取れる…弥生時代の【出雲】が繁栄を誇った"地政学的"要因とは
これらの銅矛は北部九州で作られたものと考えられ、また銅鐸の1個は淡路島で発見されたものと同じ鋳型であることが判明した。
対立的な立場とも考えられる2つの文化圏の祭祀具が、出雲で同じ土坑から発見されたのである。これは何を意味するのだろうか。
これまで北部九州の銅剣・銅矛・銅戈祭祀と畿内を発祥とする銅鐸祭祀は、対立する文化圏として語られることが多かった。実際に祭祀の共有は、同じ物流ネットワークを利用する経済的共同体としての意味を持つ。
一方で、佐賀県鳥栖市の安永田遺跡や福岡県福岡市の赤穂ノ浦遺跡などからは銅鐸の鋳型が発見されており、この鋳型によって作られた銅鐸が出雲や中国地方で出土している。高度な青銅器鋳造技術を持つ北部九州の工房が輸出用に作ったものと考えられていた。
吉野ヶ里遺跡で発見された「同じ鋳型」の銅鐸
ところが平成10年(1998)、吉野ヶ里遺跡で同じ鋳型の銅鐸が発見された。この銅鐸は意図的に埋納されており、北部九州でも銅鐸祭祀が行われていたことが判明した。
東西で重視する青銅器に違いがあるものの、貴重な青銅器を埋納する青銅器祭祀という点では、北部九州も畿内も共通する。
この青銅器祭祀文化圏という大きな枠で捉えた場合、その中心にあったのが出雲だったのではないか。だからこそ、北部九州も畿内も出雲に青銅器を運び、埋納したのだろう。
紀元前1世紀から後1世紀にかけて、各地の勢力に青銅器が広がっていく中で、出雲は青銅器祭祀のハブとして機能した。出雲は各地の青銅器文化が集結する中心地であり、出雲の首長は青銅器のクニの王となったことから、出雲の神は地上世界の主宰神としての神格を与えられたと考えられる。
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