実は「国引き神話」からも読み取れる…弥生時代の【出雲】が繁栄を誇った"地政学的"要因とは

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出雲の発展の象徴ともいえるものが、出土した大量の青銅器である。神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡(島根県出雲市)からは358本の銅剣が、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)からは39個の銅鐸が出土している。

1つの遺跡における出土数としては、銅剣製造の中心地である北部九州や、銅鐸発祥の地である畿内でも例がない、圧倒的な量である。

さらにこれらの銅剣と銅鐸は意図的に地中に埋納されていたことがわかっている。神庭荒神谷遺跡では小さな丘陵の南面に段状に土坑を設け、4列に並べて刃を立てた状態(横寝の状態)で整然と埋められた。

これらの銅剣は出雲で作られたもので、出雲型銅剣と呼ばれる。周囲には4つの柱穴が発見されたことから、埋納場所の上部には覆屋(おおいや)が設置され、何らかの祭祀が行われていたと考えられる。

加茂岩倉遺跡は神庭荒神谷遺跡から4キロほど離れたところに位置している。銅鐸が埋納されていたのは丘陵の東南部で、土坑が設けられ、鰭を立てた状態(横寝の状態)で裾を向かい合わせて置かれていたと考えられている。

両遺物には共通点があり、銅剣358本中344本に、銅鐸39個中12個に「×」印の刻印がある。この「×」印は両遺跡でしか確認されていない特徴である。

青銅器の埋納は北部九州でも多く行われており、検見谷(けんみだに)遺跡(佐賀県みやき町)の銅矛12本、隈・西小田遺跡群(福岡県筑紫野市)の銅戈23本などがある。いずれも出雲で見られるのと同様に刃を立てた状態で埋納されていた。

一方、畿内における銅鐸埋納も出雲と同様に鰭を立てた状態で行われた。

東西の「青銅器祭祀」が行われる聖地

神庭荒神谷遺跡では大量の銅剣に注目が集まるが、銅剣の埋納地点から約7メートル離れた場所から、同様の埋納施設跡が発見され、銅矛16本と銅鐸6個が出土した。

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