『ちはやふる -めぐり-』はなぜ"恋愛を控えた"のか? 贅沢品としての青春を誠実に描いた、静かな名作の功績を考える
かつて“青春”とは、恋愛・友情・部活といった、恵まれた時間と環境の中にあるものとされてきた。けれど今、そうした時間そのものが「特権」であり「贅沢品」であることに、多くの人が気づき始めている。
「贅沢品」「特権」さまざまな角度から青春を描き出す
『ちはやふる -めぐり-』が静かな熱を持って描いたのは、「何かに打ち込むことができる」それ自体が奇跡なのだという現実だ。
部活にかける時間、心から応援してくれる家族、寄り添ってくれる仲間──それらは決して万人に与えられているわけではない。
だからこそ、「恋愛的演出を控えた」この物語は、決して地味でも物足りないわけでもなく、むしろ“誰もが持てるわけではない青春”というものの意味を、静かに問う作品だったのだ。

漫画、映画、そして今作のドラマへと続く『ちはやふる』シリーズは、常にその時代の“青春像”をアップデートし続けてきた。『ちはやふる -めぐり-』では青春を贅沢品と表現し、『ちはやふる plus きみがため』では何の支障もなく部活に没頭できることを特権であると知らしめたわけだ。
そして2025年版の答えが、「恋愛を多く描かない青春」だったとしても、それはこの時代の若者たちが抱える現実を映し出す、誠実な選択なのだと思う。それらは決して現代だから起こりえたわけではない。長くずっとそこにあり、ただスポットライトの当たる先が変わっただけなのだ。
放送が終わってもなお、じわじわと残る余韻こそが、このシリーズの真価だ。
“恋が進展せずとも、何者でもなくても、誰かと何かに向かう時間は、やっぱり青春だった”──そんな静かな実感を、そっと手渡してくれるドラマだった。


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