アメリカの経済学者ポール・クルーグマンは、1998年に発表した論文で、日本が「流動性のわな」から脱する策として、「物価が上がり始めても金利を上げないと約束する」「4%のインフレ目標を15年間続ける」との驚きの提案を行った。
ただ、その一方で「これをまじめに受け取らないでほしい。むしろ真剣な研究を刺激するためのものとして考えてほしい」とも書いていた。このため、彼一流のとげのある言い回しは、日銀にはほとんど響かなかった。当時の企画局幹部は「具体的なやり方や効果について書かれていないし、検証もされていない。毒にも薬にもならないと思った」と振り返る。
だが、日銀に“異端児”扱いされていた岩田規久男(98年から学習院大学教授)にとって、クルーグマン論文は思わぬ天祐となった。
「昭和恐慌研究会」立ち上げ
ベースマネーの増加によって景気回復を図るべきだとする岩田理論は再びメディアの脚光を浴び、彼に同調する学者やエコノミストが周囲に集まり始めたのである。
2002年、岩田は「昭和恐慌研究会」を立ち上げ、昭和初期のデフレの研究に着手する。早稲田大学の若田部昌澄、財務省の高橋洋一、大和総研の原田泰らが参加し、「リフレ派」と呼ばれるグループが形成されていった。
多くの仲間を得て、岩田はリフレ派の“教祖”となり、新聞や雑誌に精力的に寄稿した。『週刊東洋経済』だけでも以下のとおり(括弧内が掲載年月)。
「ゼロ金利解除はなぜ間違っているか」(00年9月)
「デフレに立ち向かう政策は量的緩和しかない」(01年4月)
「上限3%のインフレ目指し、大胆な金融緩和を」(02年3月)
「デフレ脱却へ政策レジームの大転換を図れ」(03年9月)
「経済の回復持続にはリフレ政策が不可欠」(04年10月)





















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