名門校教師が「古文は英語と同じように学ぶな」という真意 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆくやまぎは少し明かりて…」正しい読み方は?
だから私は「読解→単語→文法」という逆の順序で指導しています。まず本文に触れ、次に必要に応じて単語や文法を学ぶ。すると生徒は「読めるようになる楽しさ」を早い段階で味わい、学習意欲も高まります。
当時の人々はどう読んでいたか
このやり方は、実は古文が書かれた当時の読み方にも近いのではないかと私は考えています。
例えば、清少納言の『枕草子』冒頭を見てみましょう。
春は あけぼの やうやう しろく なりゆく やまぎは 少し明かりて……
誰もが知っている有名な一節ですが、ここで1つ問いを立ててみます。
さて、どちらが正しいでしょうか?
実は、どちらとも言えません。なぜなら当時は句読点が存在していなかったからです。「。」や「、」がなかったため、どこで区切るかは読み手に委ねられていたのです。①では「作者の辺りが白くなっていく」、②では「山際が白くなっていく」と読むことができます。わずかな区切り方の違いで、情景が大きく変わるのです。
つまり、古文は本来「何度も読んで、自分なりに意味を考える」ことが前提でした。複数の解釈があり得ることを楽しむのが文学の醍醐味であり、それを味わった上で徐々に細部を詰めていく。これが当時の知識人の読み方であったと想像できます。
この視点に立つと、「まず文法を完全に理解しなければ読めない」という現代の学び方こそ不自然だと気づきます。むしろ、当時に近い「全体を読む→部分を深める」という順序こそが、本質的な古文読解なのです。
私は、古文を「暗記科目」として扱うのではなく、「思考を養う科目」として見直すべきだと考えています。文法や単語の知識は確かに必要ですが、それはあくまで読解を深めるための道具に過ぎません。古文の目的は、千年前の人々の感情や世界観に触れ、その豊かさを味わうことだけでなく、現代を生きる我々に不可欠な思考力を養うことにあります。
そのためには、まず「読んでみる」ことが何より大切です。現代の日本語とつながっているからこそ、ゼロからの暗記に追われるのではなく、感覚的な理解から出発できるのです。そしてその中で、必要な知識を少しずつ身につけていく。この順序こそが、古文を学ぶ本来の姿なのではないでしょうか。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら