名門校教師が「古文は英語と同じように学ぶな」という真意 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆくやまぎは少し明かりて…」正しい読み方は?
現在の古文教育では、文法→単語→読解という“固定された順番”が前提となっています。「文法をやっていないうちは読解に進んではいけない」「単語を暗記してからでないと本文は読めない」という意識が当たり前のように植え付けられてしまっているのです。
しかし、これは本当に正しい順序なのでしょうか? 私は現場で古文を教え続ける中で、この順番に疑問を抱いてきました。そして実際に、自分の授業では「文法から」ではなく「読解から」始めています。
古文は「英語」とは違う
とても当たり前のことを言いますが、古文と英語は別物です。日本人が英語を学ぼうとするとき、英語は現代日本語とは大きく構造が異なる言語であるため、単語も文法もゼロから積み上げる必要があります。だからこそ、まずは基礎を固めてから読解に入るという順番が理にかなっていると言えます。
一方で、古文はどうでしょう。確かに千年以上前の言葉ですが、今私たちが使っている日本語の源流であり、切り離された異言語というわけではありませんよね。現代日本語と順番も変わりません。単語も同様で、例えば「悲し」「うれし」「悪し」といった古文単語の意味が「まったくわからず推測もできない」という人は少ないでしょう。もちろん「をかし=趣深い」のように、現代語と意味がずれているものもあります。しかし、ちょっとした工夫で感覚的に理解できる部分が多いでしょう。
だから古文は、英語のように基礎知識を固めてからでなければ読めない、という性質のものではありません。「まず読んでみる」ことが可能なのです。むしろ、読む中で「この言葉は何だろう」「この表現はどんなニュアンスだろう」と疑問を持ち、その解決のために単語や文法を学んでいくほうが、自然な流れだと思いませんか?
水泳に例えてみましょう。泳げないからといって、プールに一度も入らず、陸上で延々とフォームだけを学ぶ水泳教室はありません。まずは水に入り、水の感覚を知ることが出発点になるはずです。しかし古文教育は、まるで陸の上でフォームだけを何年も学んでいるかのようなものです。これでは楽しさを味わう前に挫折してしまうのも当然です。「順番」こそが、古文という科目に対して多くの学生が「アレルギー」を発症してしまう原因なのではないでしょうか。
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