大恩ある主君・信長を「呼び捨て」…"人たらし"のイメージを覆す、豊臣秀吉の実は【エゲツない】素顔
尾藤知宣も同じで、知宣は九州の島津攻めで失敗を犯しました。讃岐国宇多津に5万石の所領がありましたが、没収の上、追放されてしまいます。
その後、知宣は小田原征伐の陣に現われ、「もう1回チャンスをください」と謝っています。
秀吉のイメージだと、「チャンスをください」とか「お願いします」と言って頭を下げると、「じゃあ1回だけ。今度は頑張れよ」という印象があるじゃないですか。なんといったって、秀吉は"人たらし"なのですから。
しかし、現実にはそういう甘いことはなく、知宣も許してもらえない。で、やはり、自害を申しつけられてしまう。知宣の最期については諸説あるのですが、結局は殺されちゃうんです。
実際の秀吉は僕らのイメージより、ものすごく厳しいところがあるんです。
信長を「呼び捨て」にした秀吉
秀吉と言えば、小田原の陣に遅参し"死に装束"で現われた伊達政宗に、「よし。許してやるか」と言って、豪快に許した説話が有名ですよね。
そのため僕らには秀吉に対して、なんとなく、そういうカラっとしたいいイメージがあるのですが、結構ネチネチしてて許してくれない面があるのです。
最悪の場合は、命まで取られてしまう。つまり、秀吉も、信長と同じで独裁者なんです。そこを、絶対に間違えてはいけません。
たとえば、平成28(2016)年に発見された脇坂安治への文書のなかで、追放した神子田正治に関する記述があります。
そこには、「神子田正治が、いろいろなところに逃げているらしいけど、これを匿ってはいけない」とか、「神子田を匿ったら同罪だ。俺は信長のように優しくないぞ。信長のように甘くないぞ」という、手紙を書いている。
このなかで、恩のある主君・信長に対して、信長公でも信長様でもなく、「信長のように」と呼び捨てで書いているわけですから、この一面を見ただけで、いかに秀吉の上昇志向が強いかが読み取れます。
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