大恩ある主君・信長を「呼び捨て」…"人たらし"のイメージを覆す、豊臣秀吉の実は【エゲツない】素顔

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ですが、秀吉も織田家から天下を奪ったのは家康と同罪で、そこのところは公平に考えなければいけないわけです。

秀吉が天下人となる以前は、天下人の座についていたのは織田家です。その織田家の天下を秀吉は確実に奪っているわけで、しかもその過程で信長の三男・織田信孝が死んでいますから、家康と秀吉はやっていることはなにも変わらないと言えるでしょう。

たとえば、古代マケドニアの英雄アレキサンダー大王の時代からそうですが、偉大な人が死ぬと、確実に後継者争いが起こる。

次の天下人が誰かということで争うのは、戦国時代の専売特許ではなく、2000年以上も前のアレキサンダー大王の頃からあるわけで、秀吉や家康がやったことは世界史的にみれば普通のことなのです。

天正10(1582)年の清洲会議を経て信長の後継者として名乗りを上げた秀吉も、信長の長男・信忠の子である三法師こそ殺してはいないけれども、織田家から天下を掠め取ったことは間違いないわけです。

確実に奪い取っている。この、秀吉が天下人に駆け上がるあたりから、秀吉の性格の悪さが前面に押し出されてくるのです。

秀吉に仕えた「四天王」の命運

初期の秀吉には四天王がいて、そのメンバーは神子田(みこだ)正治と尾藤知宣(とものぶ)、宮田光次(みつつぐ)、戸田勝隆の4人なのですが、宮田光次は、秀吉の三木城攻めの途中で死んでいる。四国攻めでも武功をあげた戸田勝隆は伊予国大洲7万石の大名となり、最後は畳の上で死んだ。

問題は、残りのふたり神子田正治と尾藤知宣です。

神子田正治は典型的な例かもしれませんが、秀吉から「こいつは腹が立つから追放」という格好で突然追放されてしまうわけです。

それは、なにかしらの理由で秀吉のご機嫌を損ねてしまった。言ってみれば"信長的"な処遇で追放されたのです。

この正治は、1度追放されたあとに秀吉の前に現われ、「すみません。許してください」と許しを請うたのですが、秀吉は許さなかった。そして正治に、切腹を申しつけたのです。

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