大恩ある主君・信長を「呼び捨て」…"人たらし"のイメージを覆す、豊臣秀吉の実は【エゲツない】素顔

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そこに、専制君主としての秀吉のイメージが強烈に浮かび上がってくるのです。

"人たらし"が権力を握った末路

秀吉が持ち上げられる事例としてよく言われるのが、「秀吉は、農民のことをよく知っている」「秀吉自身が農民出身だから、農民を大切にしている」ということ。そのため刀狩や太閤検地で兵農分離を行い、農民には農作業をしっかりやってもらう土台を築いた。

そういうイメージから、農民に優しい政策を行っているというような解釈がされることがあり、ドラマで描かれることもあります。

しかし、太閤検地に逆らった人間をどうしたかと言えば、秀吉は、「撫斬りにしろ」、つまり「皆殺しにしてしまえ」と、命じているわけなんです。

そこからは、天下人となり農民を見下す秀吉しかイメージできません。さらに専制君主となった秀吉は、朝廷に対しても上から目線となっていくんです。

信長の家臣時代には、"人たらし"とされるほどの気遣いの人であった秀吉も、権力を手にした途端、性格が一変する。「信長と同様に、あるいはそれ以上に専制君主となった」ということは忘れてはいけないんです。

いや、秀吉はもっと前から結構エゲつなかったかもしれない。羽柴時代の秀吉が、中国の毛利攻めを行うまでにも、三木城の"干殺し"や、鳥取城の"飢(かつ)え殺し"、備中高松城の"水攻め"といった残酷な作戦を平気で行っているわけです。

いざとなったら残虐な手段を用いることに、秀吉はぜんぜん躊躇がないんですね。

また、秀吉の部下への接し方を見てみると、秀吉の気性の激しさが見て取れます。恩賞にしても、機嫌のいいときの秀吉はたくさん領地を増やしてくれるのですが、逆に機嫌が悪いと情け容赦もなく削っていくわけです。

それが如実に現われているのが、丹羽家と蒲生家に対してです。

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