廃れゆくシャッター街の「昭和喫茶」に世界中から人が訪れる。それでも「僕らの代で最後、なくならんうちに来てくださいね」と店主が言う深い訳

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筆者がはじめて白泉堂を訪れたのは2016年。「お母さん」と呼ばれ慕われていたふさ子さんが常連客と談笑する姿を記憶している。「肝っ玉かあさん」という言葉がぴったりの、朗らかな人だった。

「義母は働き者だったんです。お盆も店を開けていたし正月も2日から営業していました。そのくせ雨やから今日は休もうとか。農家やないねんからね(笑)」(貴和美さん)

カウンターに立つ明弘さん(筆者撮影)

大手メーカーによるアイスクリーム製造の参入や、スーパーやコンビニの普及も相まって、個人商店の存在感は徐々に薄れていく。

人口密度が高く、大規模マンションがどんどん建つ「がもよん」は、子どもの数も多かった。空手6段の腕前を持ち指導者としても活躍する明弘さんは、子ども好きな一面も持っている。2000年頃、「子どもたちが喜ぶ店をやろう」と駄菓子屋を始める決心をした。

「いろいろ変えていかなあかんと思っていた頃に、氷菓子専門店から、“氷”を取って菓子専門店に鞍替えしたんです。もともとは普通のお菓子を取り扱っていて、あちこち探し回って自分で駄菓子を仕入れるようになりました。薄利多売やから大変だけど楽しいです。仕事は好きじゃないと続きません」(明弘さん)

駄菓子には総合問屋は存在せず、得意ジャンルの異なる問屋を何軒も回って仕入れるそうだ。「手間はかかるけど、子どもたちが楽しそうに駄菓子を選ぶ姿を見たら疲れが吹き飛ぶ」と明弘さんは言う。ふさ子さんは3年前に亡くなり、現在は夫婦2人で白泉堂を切り盛りしている。

昭和レトロブームに助けられて

喫茶店の創業当時から変わらないメニューパネル。写真の質感が懐かしい(筆者撮影)

昭和レトロブームによって、全国各地はもちろん海外からも客が訪れる。時を止めたような空間と昔ながらのメニューがウケているのだ。「みんな目を丸くして、料理や店内の写真を撮る」と嬉しそうに話す明弘さん。

コロナが流行りだした頃、大阪メトロが企画した「純喫茶めぐり」の掲載店に選ばれ、次第に若いお客さんが来るようになった。誰かがSNSに白泉堂の写真を上げるたびに“バズって”、客足が伸びた。

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