田沼意次の息子「意知」はなぜ殺されたのか? 鞘で攻撃を受け止めるも肩から袈裟懸けに…
意知は殿中ということもあり、刀(脇差)は抜かず、鞘で攻撃を受け止めたようですが、肩から袈裟懸けに斬られてしまうのです。
斬り付けられた意知は、桔梗の間へと逃げますが、男はそれを追いかけ、更に2カ所の深傷を負わせます。意知はついに倒れます。
殿中刃傷に気が付いた松平忠郷(大目付)が駆け寄り、男を背後から組み伏せます。柳生久通(目付)が男の手から刀を取り上げ、犯人は取り押さえられるのです。白昼堂々、衆人監視のなかの刃傷事件でした。
襲撃された意知は、下部屋に連れて行かれ、医師の手当てを受けます。息子の遭難を知った意次は、すぐに自邸から江戸城に向かったと言われています。
重傷の意知は、駕籠にて、父・意次の邸(神田橋)に運ばれました。一方、意知を斬りつけた犯人は、蘇鉄の間に押し込められます。
次いで、町奉行に渡され、小伝馬町の揚屋(未決囚が入れられた牢屋)に収監されるのでした。大目付が犯人の取り調べを担います。犯人は旗本の佐野善左衛門でした。佐野が意知を斬りつけたのは「乱心」(精神の平衡を失くす)のためとされましたが、諸説あります。
「私怨説」と「公憤説」
その中の1つが私怨説。佐野は意知の願いにより、佐野家の系図を貸しますが、催促しても返却してくれない。役職に付けてくれるよう意次の用人に頼み、大金まで渡したのに動いてくれなかった。そうした恨みがあって佐野は意知を斬りつけたというのが私怨説です。
2つ目が公憤説。田沼父子の権勢と改革に多くの人が嫌悪感を抱いており、これを何とかするために佐野は立ち上がり、意知を斬ったというのが公憤説です。
しかし、この2つの説は、信用できる史料に基づいているものではないので、信憑性は低いと思われます。幕府の評定所は、佐野を乱心としました。乱心説が正しいのではないかとする見解もありますが、幕府の公式発表をどこまで信用するかという問題もあります。というのも、幕府は刃傷事件の要因を「乱心」として度々処理してきたからです。
佐野が本当に乱心だったのならば、意知を執拗に狙う理由が分かりません。意知の同僚を狙ってもいいはずです。しかし、佐野はそれをせず、意知を追いかけて、斬りつけた。佐野は意知を殺そうとして斬りかかったと見ていいのではないでしょうか。
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