田沼意次の息子「意知」はなぜ殺されたのか? 鞘で攻撃を受け止めるも肩から袈裟懸けに…

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佐野に斬られた意知は事件から2日後(3月26日)に傷がもとで死去したとされます(死の公表は4月2日)。

一方、犯人の佐野には切腹が申し渡されます(4月3日)。佐野は揚屋座敷の前庭で介錯され、果てたのでした。享年28。佐野は東本願寺中の神田山徳本寺に埋葬されました。徳本寺の佐野の墓には多くの庶民が参り、その死を悼んだとされます。果ては佐野を「世直し大明神」と崇敬する者まで登場します。

暗殺者を持ち上げるなどおかしな話ですが、この背景には天明の大飢饉やそれに伴う米価格の高騰などがあったとされます。佐野が切腹した翌日から米の値段が下がったので、佐野を神とする思考が生まれたのでした。

石を投げられた葬列

一方、意知の葬列は哀れなものであり、町人に石を投げられる有様でした。「田沼政治」への不満が高まっていたとは言え、不慮の事件で亡くなった人の葬列に投石するなど言語道断でしょう。

田沼意知の死から2年後の天明6年(1786)、意次は老中を辞職。「田沼政治」は終焉を迎えることになります。意知の死とその直後の世間の反応は、田沼政治の限界と終焉を見据えていたということができるでしょう。

神田橋(写真:kawamura_lucy / PIXTA)
神田橋(写真:kawamura_lucy / PIXTA)

(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro

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