「22時間労働」「忙しすぎて子どもが親をわかってない」過酷な《ラーメン店経営20年》を経て54歳で“東京移住”。12年経った現在の正直な感想

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1992年末に入籍、1993年11月には長男が生まれ、公私ともに順調に思えた。

出会いはジョナサン(写真:ひとしさん提供)

だが、ひとしさんは将来的に地元の秋田に戻ることを考えていた。ひとしさんは30歳の時に秋田にいる父を亡くし、大曲市(現大仙市)の実家は母、姉、おば、祖母の4人になった。いずれ母の面倒を見ることを考えれば、近くにいた方がいいとの思いだった。

そんなとき、秋田にいる高校の同級生から「東京の外食産業経験者を雇うならどれくらいの給与が必要?」とひとしさんに相談があった。同級生が所属する会社は、秋田でハンバーグチェーン「びっくりドンキー」のFC店を経営していた。ひとしさんはちょうど秋田に戻ろうと考えていたこともあり、「それなら俺が行くよ」と即答した。

みきこさんが当時を振り返る。

「この時は本当にひどかったです。突然夫が『秋田に行くことになった』と言ったのです。いずれ秋田に帰りたいというのは聞いていましたが、あまりに突然のことで驚きました。そうはいっても、決めてしまったのでもうやるしかない。赤ちゃん(次男)がお腹の中にいるのに、わずか1カ月半でバタバタと引っ越しました」

1994年11月、ついにひとしさん一家は秋田に引っ越した。みきこさんは秋田に引っ越した後、妊娠8カ月で車の免許を取った。

「お腹がかなり大きい状態でしたので、周りの人は驚いていました。でも、東北は車がないとどうにもならないので、無理してでもこのとき免許を取っておいてよかったです」(みきこさん)

居酒屋経営が忙しすぎて、子どもに顔を忘れられて…

ひとしさんは秋田に引っ越した後、同級生のFC運営会社に約2年在籍。せっかく誘ってくれた同級生のFC運営会社を2年で辞めた理由は、会社の社長がワンマンで経営はどんぶり勘定、さらには会社の金で私腹を肥やすような人だったためだという。その後は独立して1995年から1998年頃まで、秋田市内で居酒屋を3年ほど経営した。

居酒屋は基本的に夫妻で切り盛りしていただけに、みきこさんの労働負荷も非常に高かった。昼間は店を手伝い、育児をしてから夜に再び店頭に立った。「居酒屋の運営は厳しかったです。店を始めたとき、長男は2歳、次男は1歳くらいでしたが、オープン当初は忙しすぎて夫の実家に子どもは預けっぱなしでした」(みきこさん)

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