Aさん自身は、シングルマザーのもとで2人きょうだいの長女として育ち、日本育英会の奨学金で大学に進学した。選んだのは無利子貸与の奨学金で、教師または公務員になれば返済しなくていいはずだった。
しかし、教職課程を取ったAさんが大学を卒業する1998年は就職氷河期で、教員募集の枠はほとんどない、と噂が流れていた。さらに「教育実習に行くと別途かかる費用を捻出できない。教職はあきらめて、就職活動をしました」と振り返る。
卒業後は、営業のホープと期待されて就職。職場の先輩と交際が始まり、程なくして思いがけず妊娠がわかった。
Aさんはもともと、キャリア志向。小5で父を亡くし、飲食店で働きながら調理師免許を取った母が、リストラや勤め先の閉店などで転職をくり返し、苦労する姿を目の当たりにしたからだ。母はAさんに「結婚なんかするな」と言い、自分もそのつもりだった。
だが「地方出身の彼も、彼の実家も妊娠に大喜びで、『産むなんて言ってないけど』と思ったんですが、私も『この機会を逃したら、一生妊娠しないかも』と考えました」と産むことを決めた。
働き続けることを望んだものの、妊娠中はつわりがひどかった。結局、「営業も成績トップで会社には引き留められたんですが、終電帰りが当たり前の職場でこのままでは体がもたない、と退職しました」とAさん。
子どものころは文筆業に憧れがあった。その夢を諦めて選んだ教師の道も断念、奨学金の返済が残り、さらには会社員の立場も失った。
6畳2間のアパートで始まった新婚生活。生活のゆとりはあまりなかったが「自分は弟がいたことで助かった」という思いがあって次男を産む。三男の妊娠は計算外だった。
当時の夫は深夜帰りで、育児はほぼワンオペ。子どもが騒ぐとすぐ、隣の住人が怒鳴り込んでくる。
「毎晩泣いていて、ここにずっと住んでいるわけにはいかない、と必死で節約して頭金を貯め、28歳で家を買いました。ベンチャー企業で働く夫の給料は、リーマンショックや東日本大震災の影響もあり10年上がらないままでした」
この間、Aさんは自分の靴を2足しか持っていなかった。
育児を助けてもらおうと、母親が仕事上の必要があって住む家の近くに住んだが、そこは子どもを塾や習いごとに行かせ東大を目指す親が珍しくない地域だった。教育熱心な母親たちとはウマが合わなかったAさんは孤立した。
「翼が折られた自分は、もう社会に通用しない」
働きたいとはずっと思っていたが、3人の息子を育てるだけで精一杯の日々が続く。Aさんには、再就職を躊躇する思いもあった。
「20代は一歩進むごとに夢がつぶれ、絶望しかなかった。子育てする間に若さも失われていく。社会から取り残される焦りが半端なかった」と振り返るAさん。
2000年代の当時は、「自己責任論」が跋扈(ばっこ)していた。Aさんの耳にも「就職後3年は続けないと次はない」といった世間の声が響き、技術もつけないまま「翼が折られた自分は、もう社会に通用しない」と思い込んでいたのだ。
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