簡単に測定できる、ほんのひと握りの変数で解くことが可能な、変化の割合が一定の味気ない一次方程式に世界が還元されると、私たちが自分自身や周囲を見る目がいっそう曇る。
世界をコントロールしたいというそのような不毛な願望に囚われているうちに、人生そのものが方程式の解を求めるという骨折り仕事に変わりうる。
その場合に私たちは、隠れた因数(つまり製品や昇進など)があと1つ得られさえすれば本当に望むものが手に入る、と絶えず感じ続ける羽目になる。
ところが、それを買ったり達成したりすると、けっきょくそれは、またも満足感をもたらしてくれない蜃気楼(しんきろう)だったことがわかる。
それなのに私たちは、「コントロール」という名の聖堂にしつらえた「進歩の祭壇」で崇拝を続ける。
目覚めている時間のほとんどを、人類の進歩という漠としたものの達成に捧げる。そうすることで、世界のますます多くの部分を手懐(てなず)けることができるだろうから。
最適化のための空疎な努力
ところが、目覚めている間の努力をすべて、徐々に最適化を進めるための奮闘に注ぎ込もうとすれば、人間であることの本質自体が消え去り、時計仕掛けの成れの果てが残るだけだ――細分化された内面の不毛さが。
私たちはドン・キホーテのように現実を忘れて熱狂的に骨を折り、企業戦略や仕事術や「やることリスト」から効率性を最後の一滴まで絞り取ろうとする。
それは、徹底的に無駄を省こうという、ドライブスルー方式の生活戦略だ。どんどんこなせばいい。たとえ1つひとつの面白みが薄れていっても。
けっして十分な満足をもたらしてはくれない目標を追い求めて無駄な努力を果てしなく続けるうちに、多くの人にとって人生の勝利とは、ゆったりとした静かな畏敬の念を抱く瞬間を排除し、超生産的なマルチタスキングに置き換えることになった。
それは私たちの多くには、チェックリストに追い立てられる人生のように感じられる。
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