言葉のなまりも他国から「理解しがたい」と苦言を呈されていた。さすがにこればっかりはすぐに直せるものではなかったが、重豪は繰り返し矯正令を出しては、みなの意識を改革しようと苦慮したようだ。
また、重豪が問題視したのは「けんか口論」の多さだ。喧嘩の張本人は厳重に取り調べて、身分を落としたうえで、死者が出た場合は死体を取り捨てて弔いをさせないばかりか、事の次第によっては、親兄弟の所領も没収する――と厳しい申し渡しを行っている。夜に町角に立つ「辻立」もけんかの原因になるとして禁じた。
そのようにして薩摩の荒々しい士風を改めさせようとした重豪。一方では、他国からの入国を自由にして、町の活性化を図った。

さらに薩摩藩の藩校である造士館(ぞうしかん)や武道場の演武館を皮切りに、医学を学ぶ医学院、天体観測施設の明時館などを、次々に創建したのは、重豪の功績である。
曾孫を洋学に目覚めさせて薩摩藩を近代化
あらゆる角度から薩摩藩の閉鎖性を打破しようとした重豪は、有力大名や将軍との婚姻を避けていた島津家の方針を大転換し、政略結婚を推し進めた。一橋家の家斉にも娘の茂姫(広大院)を送り込んでいたことで、娘が将軍の御台所になるという、大金星をあげることになった。
家斉が将軍となってしばらくすると、重豪は高輪の屋敷に移住。「将軍外戚」という立場を生かして、薩摩藩の財政を立て直すべく動いている。琉球貿易によって入手した中国産品を長崎で販売させてもらうように幕府に働きかけて、これを認めさせた。
健康法として「鳥類を飼育し、その鳴き声を聞いて耳目をさわやかにすることが、天寿を養う」と語った重豪。89歳で亡くなるまで高輪で充実した人生を満喫した。曾孫を可愛がって、幼少期はともに暮らした時期もあり、一緒に入浴しては、いろいろな話を聞かせたようだ。
重豪の目じりを下げさせたその利発な曾孫こそが、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬である。斉彬は曾祖父・重豪に感化されながら、洋学知識をフル活用して殖産興業、富国強兵に注力。自藩をモデルに日本近代化の基礎を築きながら、西郷隆盛や大久保利通といった傑物を輩出する土壌を作りあげた。
【参考文献】
岡崎守恭『遊王 徳川家斉』(文春新書)
芳即正『島津重豪』(吉川弘文館)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)
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