儒学者・室鳩巣(むろそうきゅう)のもとで学んだ朱子学者たちによって、重豪は儒学的な教養を身につけていく。
また、散楽(猿楽、能楽のこと)を好み、早くから修業を積んだ。鷹狩りも親しんだため、銃も乗馬も得意だったという。母、伯父、父と立て続けに亡くし、重豪自身も丈夫ではなかったことから、健康のために野外活動に打ち込んだともいわれている。
蘭学に傾倒してオランダ語を習得した
宝暦9(1759)年、重豪は15歳で一橋家の初代当主・徳川宗尹(とくがわ むねただ)の娘・保姫と縁組を行う。宗尹は8代将軍・吉宗の4男にあたる。
重豪の祖父にあたる継豊が5代将軍である徳川綱吉の養女・竹姫を妻としており、すでに薩摩藩と将軍家との関係ができていた。重豪の縁談によって、そのつながりがさらに強化されることになった。
その翌年に後見人を務めた祖父の継豊が死去。17歳で重豪は江戸を出て、藩主となってからは初めて鹿児島に入っている。
後見人を失ったことで、いよいよ自分がしっかりしなければと考えたのだろう。23歳のときには「四書五経」などの儒書をはじめに、中国の史書・詩文集や、和歌の関連書など100冊を購入。長崎の町人学者・西川如見(にしかわ じょけん)が中国や朝鮮・台湾、そしてオランダやイギリス等、アジアからヨーロッパの国々について書いた『華夷通商考』も愛読したとされている。
中国語辞書である『南山俗語考』の編纂を命じるなど、海外の文化に深く関心を持ち、藩政に生かそうとしていたようだ。オランダについては、自身でオランダ語を学ぶほどの傾倒ぶりだったという。
参勤交代で江戸と往復する際には、京都や宇治、兵庫や大阪に立ち寄って、上方文化に触れた重豪。藩の改革として「言語容貌の矯正」を命じた。
長い刀を持って裾が見えるような短い袴を履く薩摩武士の姿は、いかにも古めかしい武士の姿だとして、他国の地理学者からネタにされることもあり、重豪としては忸怩たる思いだったのだろう。
6才から20才の青少年が長い刀を持つことを禁じたり、武士や百姓に「髯の見苦しいのを改めよ」とお達しを出したりしている。
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