「ドミノ・ピザは大量閉店」「シカゴピザは自己破産」…栄枯盛衰の宅配ピザ業界。王者が入れ替わってきたその競争の歴史
ドミノ・ピザの場合はアーネスト・エムの比嘉社長とジェーシー・フーズの大河原愛子社長(いずれも当時)がきょうだいということもあり、両社の仕入れでの蜜月関係は続いた。
先行者のメリットをしっかり享受したドミノ・ピザであったが、当時は直営主義を貫いていたドミノの出店ペースは遅く、地域によっては「待てど暮らせど宅配ピザ店は進出しない」という、スターバックスコーヒーにも似た「渇望」状態が続く場合もあった。
トップに立ったピザーラ、♪エッビマヨマヨエビマヨ~ も立派な戦略!

独走するかと思われたドミノ・ピザを相手にジャイアント・キリングを起こしたのは、1987年に1号店(目白店)を出店した「ピザーラ」であった。
本国・アメリカでのメニューをある程度守っていたドミノ・ピザに対して、ピザーラは「日本人が毎日食べても飽きないピザ」を掲げ、ポテトやエビマヨ、カレーなどを使ったピザを次々と開発。さらに、あんぱん・角食パンなどが絶大な人気を誇るベーカリー「浅野屋」の協力を得て、ドミノ・ピザとは違う生地を開発した。
この当時は、3強の一角である「ピザハット」のアメリカ本社と国内フランチャイズ契約を結んでいた「日本ケンタッキー・フライド・チキン」も「ジェーシー・フーズ」との関係が深かった(KFC・大河原毅社長と大河原愛子社長が夫婦)こともあってか、「ドミノとピザハットの味が似ている(食材が共通だから?)という話もよく聞いた。そういった意味でピザーラは、味・サービスともに、日本ナイズされた宅配ピザを根付かせた「業界第二の先駆者」であったと言えるだろう。

ピザーラのもうひとつの勝因は「メディア展開」だ。同社は店舗数が少なかった1991年からテレビCMを展開、10億円単位の莫大な費用をかけて旬のタレントによるCMを大量投下し、知名度でドミノ・ピザをあっという間に上回った。
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