「日本書紀」に記されたスサノオの降臨譚には、なぜ新羅と百済の"2つの異伝"が存在するのか?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

第五の一書には、朝鮮半島に降臨後、韓郷(からくに/朝鮮半島)には金銀がある。そこに渡るためには子孫たちが船を持たないと都合が悪いとして、体毛からさまざまな樹木を生み出し、船や宮殿、棺をつくるようにいった。

そして、スサノオは子どもたちとともに日本中に樹木の種を蒔いたのちに、熊成の峯(くまなりのたけ)から根(ね)国(和歌山県と考えられる)に入ったとある。ヤマト王権と友好関係を結んだ百済(朝鮮半島南西部)の王都があった熊津(ゆうしん)は万葉仮名(日本語を漢字表記したもの)では久麻那利(クマナリ)とある。

百済は4世紀前半に朝鮮半島南西部で成立した国だ。『日本書紀』に、朝鮮半島の新羅と百済の2カ所の降臨譚があることになる。

対馬海流でつながる朝鮮半島と出雲

『日本書紀』の記述から、ヤマト王権はスサノオを朝鮮半島と関わりが深い神と認識していたことが読み取れる。一方で、『魏志』倭人伝では、朝鮮半島から壱岐、対馬を経由して北部九州の末盧(まつら)国(佐賀県唐津市)に至るルートが記されている。自然に考えれば、朝鮮半島に降り立ったスサノオが渡来する地は北部九州となる。

『古事記』では出雲系神話の割合が大きく、神話が記された上巻の3分の1を占める。出雲系神話ではスサノオの子孫であるオオクニヌシが海の彼方からやってきたスクナヒコナと地上世界を開拓し、「大いなる国の主」となる過程が描かれている。

実際に弥生時代の出雲は、北部九州と並ぶほどの大きな勢力を誇った。2世紀になると、出雲を発祥とする四隅突出型墓が日本海沿岸部に多く造営され、出雲連合とも呼べる一大交易圏を構築した。

当時の船では瀬戸内海の速い潮流に対応することは難しかったため、日本列島の主要な物流路は日本海ルートだった。そして朝鮮半島から見て日本海沿岸部の最初の半島が島根半島にあたる。

『出雲国風土記』には神門水海(かんどのみずうみ)と呼ばれる内海が記されており、実際に島根半島西部には、天然の良港となる巨大な潟湖(ラグーン)があったことがわかっている。交易によって栄えた出雲は古代日本有数の勢力となった。

日本から朝鮮半島へと渡るためには、『魏志』倭人伝に記された北部九州から壱岐、対馬を経由したルートが最適となる。唐津湾→壱岐→対馬→釜山までのそれぞれの間隔は40〜50キロほどで、次の経由地を肉眼で見ることができる。

次ページ朝鮮半島と日本列島の間を流れる対馬海流
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事