「芸人はなぜ苦節“ウン十年”がゴロゴロいるのか?」 「THE SECOND」ファイナリストのハンジロウが、副業してでも《お笑いを辞めない》理由

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しゅうごパークさんがお笑いと出逢ったのは、中学1年のとき。お年玉で買ったテレビデオで夜中までテレビを見ていたら、あの“伝説の番組”と遭遇する。

「自分の部屋で見た『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)に衝撃を受けたんです。当時、沖縄にいると、若手の芸人さんたちのネタを見る機会があまりなくて。オンバトで見たアンタッチャブルさんやDonDokoDon(山口智充・平畠啓史)さんのネタがあまりにも面白くて、そこからお笑い芸人になりたいなと思うようになりました。番組に出ていた人たちは僕にとってはスターでした」(しゅうごパークさん)

それから『爆笑オンエアバトル』の出演者が発する言葉をすべてノートに書き写して、「この場面では、こういうことを言ったら面白いんだ』と学び、幼なじみで後にコンビの相方となるたーにーさんともう1人の友人の3人でショートコントやお笑いビデオを作っていた。

高校に進学すると、たーにーさんとのコンビで沖縄の「フレッシュお笑い選手権」で優勝し、2003年、高校卒業後に沖縄のローカル芸人として活動を行うようになる。最初のコンビ名である「しゃもじ」は、何も考えず軽いノリで適当につけたという。

「高校を卒業して沖縄で芸人になって、21歳まではお互いにバイトと並行してやっていました。2007年に「沖縄お笑いNo.1」を決めるイベント『第1回 O-1グランプリ』で優勝してからは芸人一本で生活できるようになりました。地元テレビやラジオ番組に出演したり、披露宴の司会、週末はデパートでネタをやったりして結構忙しくしてましたね」(しゅうごパークさん)

ハンジロウ
たーにーさん(写真左)としゅうごパークさんは地元・沖縄の幼稚園時代からの幼なじみ(写真:本人提供)

「ローカル芸人」の座を捨て、東京へ

地元にいても芸人一本で生活できていたが、「どうしても東京で勝負したい」という大志を抱き2009年に上京。東京に来た当初は順調だったが……。

「上京してすぐに『ふくらむスクラム!!』(フジテレビ)というお笑い番組でレギュラーになったんですよ。でもこの番組が終わった後、『同番組の色がつきすぎている」と他の番組オーディションを受けても落とされるようになりました。あれはしんどかったです。

先輩芸人たちには、『「ふくらむスクラム!!」が終わったら、ビックリするくらい他の仕事がなくなるからな』と言われていたんですけど、本当にその通りになりました。僕らは『お笑いで食べられる人間』だと勘違いしていました。東京のお笑いの流れをあまりよくわからないまま大きな波に飲まれて、仕事がなくなって溺れていることも理解できていなかったです」(しゅうごパークさん)

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