「パンの耳を食べて暮らした」齋藤孝教授が振り返る”極貧20代”。その時代を経て思う「過度に”お金の心配”をする人が失うもの」とは?
安本末子さんが書いた『にあんちゃん』(KADOKAWA)という日記作品があります。主人公は小学校低学年の、ものすごく貧しい家の子たち。お金がなくて、兄弟も離れ離れになるほどの貧乏暮らしという設定です。
でも、この作品を読んでいると、貧しいなかで頑張る姿に美しいものを感じてしまいます。もちろん、貧乏を礼賛するつもりはありません。ですが、貧しさをものともしない強い価値観が昔はあったということが、強く伝わってくるのです。
「貧乏万歳!」的な価値観があった
思えば『巨人の星』の主人公、星飛雄馬の家も貧乏でしたし、『あしたのジョー』の矢吹丈に至っては貧乏なうえに天涯孤独です。
人気漫画やアニメの主人公たちが、そろいもそろってみな極貧の身の上。つまりは、僕の若かった時代には貧乏肯定、貧乏が当たり前という「貧乏万歳!」的な価値観があったのです。
そんな時代感覚の下で育ったせいで、僕のなかでは「金持ちがよくて、貧乏が悪い」という価値観が希薄なのかもしれません。もちろん、好きなことばかりやってきたのだから貧乏も致し方なしと、そんな考えも若い頃はあったかなあと思います。
でも一方で、好きにやっているだけでは、お金はそう簡単にもらえるものではないというのも身にしみて実感しました。論文を書いただけでは、ギャラはもらえません。塾講師のバイトをやっていましたが、それでようやく少し稼げる程度だったのです。
貧乏を経験した20代は、僕にとってはお金のなさを嘆くより、お金のありがたみを痛感する時期だったと言ってもいいでしょう。何しろ、レコード1枚にしても、「もったいないなあ」と煩悶しながら買っていましたから。
しかし、だからこそ大切に何度も聴こうとしたものです。今のようにストリーミングやサブスクリプションサービスを使い、無料に近い感覚で大量の楽曲が聴けてしまうよりも、ものに対するありがたみ、愛着は、はるかに強かったと思います。
僕は学生時代からずっとテニスをしていましたが、ラケットを買うお金もガットを買う余裕もなく、万が一ラケットが壊れたら、ガットが切れたら終わり、もうテニスはできない、という気持ちでやっていました。
お金を持っている友だちに「齋藤くんはテニスが上手なんだから、ラケットをもう1本買いなよ。僕がお金を出してあげるからさ」なんて言われたこともあったほど。そんな事情もあったため、僕は人一倍大切にラケットを使っていました。
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