大河ドラマ主役「蔦屋重三郎」現代の"ヒットメーカー"との共通点 作家たちとの交流で大事にしたこと
ほかの版元も、山東京伝の獲得競争に乗り出し、なかなか大変な状況だったようです。とは言え、戯作者も、特定の版元からしか、作品を出さない人は極めて少数だったとのこと。複数の版元の依頼に応じて、さまざまな版元から作品を刊行するのが、普通だったのです。
これは現代の作家と出版社の関係と同じと言えるでしょう。蔦屋重三郎は、戯作者たちと、吉原などで交流を深めていきましたが、「これは」と見込んだ戯作者がいると、ある意味、惚れ込んで、「食客」(客分として抱える)としたようですね。その戯作者が若く、放蕩だったとしても、重三郎はそれに「加担」し、散財したとのこと。
重三郎の献身により、身を立て、名を成した人もいます。『戯作者小伝』(著者は岩本活東子)では、四方赤良、喜多川歌麿や滝沢馬琴の名を挙げています。重三郎のそのような行動を、同書は「侠気」(男らしい気質)としています。
重三郎の姿勢とは、対照的だったのは、西村屋(永寿堂)与八でした。与八は、鱗形屋孫兵衛(江戸の老舗版元)の2男として生まれ、西村屋の養子となっていました。その与八は、版元こそが、著者の名を高くするという考えでした。だから、著者のほうから出版をお願いしにくるべきだ、「自分のほうからは決して求めぬ」というのが、西村屋与八の態度だったようです。上から目線と言えば、これほどの上から目線もないのかもしれません。
このような態度で経営が成り立ったのかは今から考えれば疑問ですが、当時の版元のエリートらしい考え方ではあります。
西村屋とは対照的に、蔦屋重三郎は、著者やその作品に惚れ込み、血の通った交流をしたと言えるでしょう。
松本清張とのエピソード
重三郎のこうした逸話を聞いて、私が思い起こすのが、幻冬舎の見城徹氏(同社代表取締役社長)の言動です。見城氏は、作家・松本清張氏に会うときに、百数十冊はある清張作品をすべて読んでから、会ったとのこと。
見城氏は、そのときのことを「お会いしたときにどの作品の話が出ても、ちゃんと感想を言えるようにするためです。結局、作品の話など出なかったけどね。でもそこまでやらないと、相手の心の中に自分の手跡をつけることなんてできないよね」(長谷川敦『人とは真っ当に付き合え!』なぜ、幻冬舎・見城徹は圧勝し続けられるのか」『SUPER CEO』2019年10月10日配信)と述べています。

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