「知っているだけの知識人」はもういらない! なぜ東大も京大も変わったのか? 大学「大衆化」の現実と再定義される「優秀さ」とは

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しかし、これも「優秀さ」を語ることになるかはよくわからない。「優秀さ」の評価は時代によって変わるからだ。

いまは高度経済成長期のように知識をいっぱい詰め込む教育をする時代ではなくなった。かつては多くの書物を読みあさらなければ知識を獲得できなかったが、いまは知識を簡単に手に入れられる。

知識の多寡ではなく、いかにその知識を活用できるかだ。知識をため込むことではコンピュータに負ける。知識は必要だが、知識偏重の時代は終わった。知識の多さによって正解が得られるわけでもない。正解も状況や立場によって変わるものだ。

真実はひとつではない。ロシアにおける真実もあれば、ウクライナにおける真実もある。事実は、人が戦争で殺されていることだ。真実が正解であるとも、ひとつであるとも限らない。「正解のない問い」がそこかしこにある。複数の解から最善解、納得解を導き出すことを求められている。

むしろ、正解を自ら創造していくことを求められている。アメリカのIT関連企業がまさにそうだろう。つまり、正解がすでに存在する、正解がひとつに決まるといった「正解主義」から抜け出す必要がある。

時代が求める「脱・正解主義」

国際バカロレア(IB)では、国際的な教育プログラムを提供している。スイスの国際機関で働く人たちの子弟が大学進学のために母国に帰ったときに、各国で入試のスタイルが異なり苦労したため、どこの国の大学入試にも対応できる世界で最も優れた教育プログラムを作ろうとしたことに始まる。

すでに設立されて50年以上が経つ。日本では10年ほど前に、グローバル教育推進のために注目され、普及のために数値目標も設けられた。ちょうど大学入試改革が議論されていた頃だ。

私もIB教育を普及させるために、グローバルな教育支援産業であるピアソンが出版し世界的に使用されている『Theory of Knowledge (TOK)』の本を翻訳するとともに、IB教育のあり方を紹介する本『セオリー・オブ・ナレッジ 世界が認めた「知の理論」』を企画、構成、編集して上梓した。

セオリー・オブ・ナレッジ
『セオリー・オブ・ナレッジ 世界が認めた「知の理論」』(写真:編集部撮影)

IBやTOK(知の理論)については、また機会を見て紹介するが、この本にはIB創立の歴史的な背景も詳しく書かれている。そこには、こんなことが書かれている。

「生徒が高度な教育を受けたかどうかは、試験で何点取れるかではなく、まったく新しい状況で何ができるかによって確かめられる」

これは、IBの初代事務局長であるアレック・ピータソンの言葉だ。50年ほど前に言われたことだが、いま、日本の教育ではこのことが求められている。「脱・正解主義」だからである。

そして、IB教育は「探究学習」を重視している。東京大学も後期入試を廃止して高校推薦を始め、京都大学も同じように特色入試を始めた。

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