生命は存在せず「幻想」であるという奇妙な考え 既知の物理学はなぜ「生命」を説明できないのか
ところが生命の起源は、科学最大の謎の一つでありつづけている。物理学とは、歴史上のこの瞬間に私たち人類が理解しているとおり、生命を含まない宇宙を根源的な形で記述するものである。それは私が住んでいる宇宙ではないし、おそらくあなたが住んでいる宇宙でもないだろう。
だが、もしも生命が存在するとしたら、はたして生命とは何なのか?
私たちは何ものなのだろうか?
「生命」だけに見られる特性
かつての科学者は、現代の物理学者や化学者の見方とはまったく対照的に、生命は物質とは別のカテゴリー(範疇)として存在すると信じていた。
生きている物質には、"生命力"、いわゆるエラン・ヴィタールというものが吹き込まれていると信じられていた。アリストテレスはそれをエンテレケイアと呼び、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツはモナドと呼んだ。
いずれも、生きた実体にしか見られない固有の特性を指していた。すなわち、胚の発生や、失った肢の再生など、生命に特有であると思われる、目的を持った活動、いわば生きた振る舞いを指揮する。このような生の概念は、宗教的な魂の概念に近く、そのとおり魂と呼ぶ人もいる。
呼び方はどうであれ、このような特徴は生きていないものには見られないため、生命に特有のものであると私たちは考えている。石を二つに割ったらもとの形に戻ることはないが、プラナリアならもとの形に戻る。
生気論と呼ばれるようになったこの科学的趨勢を後押ししたのは、物質に生命を吹き込むものを機械的に記述することはできず、そのため物質的ではないとする考え方である。
エリントンやキャロルやショスタクといった現代の唯物論者は、物質の既知の性質だけで生命を十分に説明できるとみなしているが、生気論者はそれとはまったく逆の見方を取っていた。確かに生命は存在するが、それを物質の性質によって説明することは不可能だと考えていた。
生命力というこの概念は、死んだ物質にすら生命を吹き込める、生命エネルギーや生気といったものに当てはめて論じられることが多かった。フランケンシュタインのようだと思われたとしたら、それはまさにそのとおりだからだ。
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