「明治の廃仏毀釈」寺社が受けたエグすぎる仕打ち 「顕著な観光地化」「葬式仏教化」のきっかけに
先に触れた全国各地の廃寺には、じつは上知令が決定打となったケースも多い。
かくして全国の社寺は財政基盤を一気に失った。ただし社寺の破綻を回避すべく、当面の救済策として従来の収入の半分が政府から支給されることになり、明治7年(1874)までこの制度は継続した。
「権威と特権的地位」を失った仏教と僧侶たち
社寺領上知令は寺院のみならず神社も対象としたものなので、双方は同等のダメージを受けたのだろうと考えるところだが、ほどなく両者には大きな差が設けられた。
上知令布告から4カ月後の明治4年5月、神社を「国家の宗祀」(国家公共の祭祀施設)と定める太政官布告が新たに出され、主要な神社には官費が支給されることになったからである。
またその後、有力神社(官幣社・国幣社)の神職の給与に官費があてられることも規定された。
明らかに神社・神職を優遇し、寺院・僧侶を切り捨てようとする政府の措置で、神道国教化を前提とした動きだった。
一方で、寺院の権益の源泉となっていた寺請け制度(誰もが必ず特定の寺院の檀家として登録される制度で、戸籍的な機能をもった)が廃止され(明治4年4月)、「これ以後、僧侶は肉食・妻帯・蓄髪を自由に行ってよい」と命じる太政官布告も出された(明治5年/1872年4月)。
これらの施策は、徳川政権下では国教的な立場にあった仏教の権威を失わせ、僧侶の特権的な地位を否定し、世俗化を促すものだった。
もっとも、明治9年(1876)頃に廃仏の嵐が収まると、有力寺院は各仏教宗派の本山などになって規模を縮小させながらも復興し、生き残った中小寺院も仏式葬儀を望む民衆の求めを得て息を吹き返してゆく。また、歴史ある堂塔や仏像は文化財・美術品としても注目されるようになる。
その意味で現在の顕著な寺院の観光地化、日本仏教の葬式仏教化の淵源は、明治の神仏分離に求めることもできよう。
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