「明治の廃仏毀釈」寺社が受けたエグすぎる仕打ち 「顕著な観光地化」「葬式仏教化」のきっかけに

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⃝ 新政府幹部には仏教界の有力者がいなかったので、廃仏がはじまった当初は仏教側から強い反論が生じにくく、すすんで還俗する僧侶も多かった。

維新の廃仏毀釈は、このような要因が複合して発生し、なかば民衆運動となって激化した。

しかし、すでに記したように、廃仏毀釈は政府の意図するものではなかった。

そのため、太政官は慶応4年4月10日に「神仏分離に乗じて神職が私憤をはらすことは、政道の妨げになり、さまざまな紛擾(ふんじょう)を引き起こすので、してはならない」と警告し、同じ年の9月18日(9月8日明治改元)には「神仏混淆を禁じる布令を出したが、これは破仏を趣意とするものではなく、僧侶はみだりに還俗してはいけない」という行政官布告が出るなどして、廃仏毀釈が重ねて戒められている。

こうした処置にもかかわらず、廃仏毀釈運動は各地に飛び火し、明治9年(1876)頃まで継続した。

その後、仏教各派は復興してゆくが、政府は廃仏毀釈の間に、寺請制度の解消、社寺領の収公、僧侶の肉食(にくじき)妻帯(さいたい)蓄髪(ちくはつ)の解禁なども実施していたため、仏教は公的な庇護や権威を失い、私的な信仰に位置づけられるようになる。

激しい廃仏が、近代日本仏教の覚醒につながったという見方もあるが、逆に日本の民衆に「無宗教」という意識を胚胎させたという見方もある。

この時期に青春期を過ごした彫刻家の高村光雲は晩年、神仏分離と過激な廃仏についてこう回想している。

「当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議に思うものもありませんでした」(『幕末維新懐古談』)

廃仏と寺領没収で「廃寺」が激増

一過性のものであったとはいえ、明治の廃仏毀釈運動は、特定の寺院のみならず日本の仏教界全体に甚大な影響を及ぼした。

 それはまず端的には、寺院数の激減という形をとってあらわれた。廃寺の数は地域によって濃淡があるが、一番極端な例は薩摩藩で、かつて藩内には1066の寺院があったが、廃仏後はそれが見事にゼロとなった。

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