「明治の廃仏毀釈」寺社が受けたエグすぎる仕打ち 「顕著な観光地化」「葬式仏教化」のきっかけに

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土佐藩も寺院破却が激しかった土地で、藩内の寺院615カ寺のうち439カ寺が廃された(『明治維新神仏分離史料』所収「土佐の廃寺」)。廃寺率70%超である。

寺院の統廃合を積極的に推し進めた延岡藩・高鍋藩などを擁した宮崎県も寺院数が激減した地域で、維新前は548カ寺あったが、明治8年(1875)までに約8割が廃寺となった。

比較的穏便に神仏分離が行われた埼玉県でも廃寺率は2割である(村田安穂『神仏分離の地方的展開』)。

最終的に日本全国でどれだけの寺院が失われたのかははっきりしていないが、一説に、明治の神仏分離と廃仏毀釈によって全国の寺院の総数は半減したという。

当然、僧侶という身分を捨てた者もかなりの数に及んだことだろう。そしてそれにともなって、仏像をはじめとする貴重な仏教美術・文化財が数多く破壊され、散逸したのだ。

深刻な「経済的困窮」にも直面した仏教界

もっとも、仏教界の受難はこれにとどまるものではない。廃仏運動がはじまってまもなく寺院はさらなる試練に見舞われた。深刻な経済的困窮に直面したのである。

江戸時代、有力な寺院は(また有力な神社も)将軍や領主から土地を与えられ、将軍から交付された土地は朱印地 、大名からの場合は黒印地と呼ばれた。

朱印地・黒印地では租税が免除され、その土地の農民からの年貢や諸役を寺院の収入にあてることができた。朱印地・黒印地のない中小の寺院であっても、境内地以外に山林や田畑を所有していたところが多かった。

ところが、明治4年(1871)1月5日を機に状況が一変する。この日、太政官は「社寺領上知令(あげちれい)」を布告し、全国の神社と寺院に対して、現有する境内地を除くすべての領有地を国家に収公させることを命じたのだ。

明治2年(1869)の版籍奉還にならい封建的な土地・人民の領有制度を改めるというのが表向きの趣旨であった。寺社の所有地として認められるのは原則として境内地のみとなり、それ以外の社寺領(朱印地・黒印地だけでなく山林・田畑なども含む)はすべて国家に没収されることになった。

社寺領没収の影響は有力な社寺ほど大きく、京都の清水寺は約15万7千坪から1万4千坪に、相国寺は7万坪から2万7千坪へと寺領が激減している。

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