「明治の廃仏毀釈」寺社が受けたエグすぎる仕打ち 「顕著な観光地化」「葬式仏教化」のきっかけに

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江戸時代に会津藩や水戸藩など一部の藩でも寺院の破却は行われ、小規模ながら廃仏毀釈が実施されている。しかし、明治の廃仏毀釈は、これらとは性格を異にする。

会津藩や水戸藩の場合は為政者である藩主が廃仏を命じているのに対し、明治の場合は、中央政府が廃仏を法令などによって直接命じたわけではないからだ。

慶応4年(1868)に発せられた神仏分離令の趣旨は、いずれも神仏習合を禁じ、神社の仏教色を排除することであって、「寺院を破却せよ」とか「仏像を破壊せよ」「僧侶を迫害せよ」などと命じたわけではない。

つまり、新政府は神仏分離に際して、仏教そのものの弾圧や排撃は意図していなかったのだ。

にもかかわらず、一連の神仏分離令を契機として、日本各地で激しい廃仏毀釈が行われた。では、だれがそれを行ったのかというと、主導したのは国学者や神道家、神職たちであり、そして彼らのあとに廃仏に共鳴する民衆が続いたのだった。

いくつもの要因が複合して発生した明治の廃仏

なぜ廃仏が行われてしまったのかを考えてみると、次のような要因があげられよう。

⃝ 幕末維新時には、廃仏主義で本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に否定的な平田篤胤系の復古神道(国学系神道)や水戸学が広まっていて、新政府の幹部や役人たちにもそれに影響を受けた人間や信奉者が多く、また水戸藩のようにすでに廃仏を実行していた地方もあり、為政者側に廃仏毀釈の気運が高まっていた。

⃝ 江戸時代の神仏習合下では神社は寺院(神宮寺・別当寺)に管理され、神職は身分的にも経済的にも僧侶の下に位置し、不満を抱いていた。

そのため、神仏分離が行われると、これに乗じて積年の恨みをはらそうと、神職たちは廃仏におよんだ。

⃝ 江戸時代、寺院は幕府の庇護を受け、各家が檀那寺をもつことを義務づける寺檀制度・寺請け制度の確立により民衆支配の一翼を担っていたが、修行や教学を怠って奢侈にはしる堕落した僧侶も多かった。

そのため、寺院・僧侶に批判的な民衆も多く、神道家たちが廃仏を起こすと、これに賛同して手を貸した。

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