45歳で死を望んだ彼女が迎えた「安楽死の瞬間」 その時、医療介助死を支えた医師が感じたこと
ヨランダの強さは知っていたつもりだが、思っていたよりはるかに強かった。それでも、ようやく深い昏睡状態に入った。もうこの眠りから覚めることはないだろう。ここからは、わたしにできるのは待つことだけだ。
わたしは数多くMAiDを提供してきたので、感情を抑える方法を知っている。思考を一時停止させ、慎重かつ効率的に仕事をすることに意識を集中させるのだ。感情を遮断し、感情に仕事の邪魔をさせない。
けれど、また泣いてしまった。
ほかのどの患者より、ヨランダとは長い時間を共有したので、彼女の家族がこの日を、音楽とダンスと思いやりでいっぱいのセレモニーにしてくれたことに深い感動を覚えていた。
医療介助死は「命を褒め称えるためのもの」
MAiDを提供することで、ヨランダの願いを叶えてあげられることはわかっていた。だが、それだけではない。MAiDはヨランダに力も与えた。この仕事は人の命を終わらせるためのものではなく、その人の命を褒め称えるためのものなのだ。
あとになって気づいたのは、ヨランダはわたしが望むMAiDの理想を体現していたということだ。MAiDは、それを必要とする人に適切に提供されるなら、苦しんでいる人をケアするための必要不可欠な一部になるという理想だ。同時にヨランダは、MAiDに欠けているものは何か、わたしのフラストレーションの原因が何であるかも教えてくれた。
MAiDはいいものだが、もっといいものにしなくてはならない。
この仕事を通して、わたしは医療について、人間について、あるいは自分自身について、さまざまなことを学んだ。
医者が人の死を介助するというのはどういうことか、どのように手を差し伸べるべきかということについて、考えが深まった。この仕事に寄せる思いも変わってきた。これからも変わり続けるだろう。それをこれから語ることにしよう。
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