宮崎県延岡市にミャンマー人が押し寄せる理由 「民」から始まった地方都市とミャンマーの交流

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2014年最初の研修生らとMJCマネージャーのタンタンさん(右から2番目)と、延岡とミャンマーをつなげた富山隆志さん(左から3番目)。1回目の研修生とは今でも深い絆でつながっており、何度も延岡を訪れているという(写真・富山隆志さん提供)

「延岡はミャンマーで有名ですよ」

長年、日本とミャンマーの経済・人的交流に尽力されている駐ミャンマー特命全権大使(当時)の丸山市郎氏の言葉です。この言葉を「今でも忘れられない」と振り返るのは、延岡に住む富山隆志さん。この富山さんこそ、延岡とミャンマーの交流のきっかけを築いた中心人物です。

宮崎県北部、人口11万の地方都市にすぎない延岡市が、なぜミャンマーで有名なのでしょうか。しかも、ミャンマーの大手企業の経営者や高級官僚が延岡に続々と訪れるようになったのでしょうか。それは2014年から始まります。

当時、延岡市の中小企業の若手経営者らが集まり、海外進出を模索していました。インドネシアやベトナムはすでに多くの日本企業が進出しており、一方で2011年以降の政治改革や経済改革で「アジア最後のフロンティア」としてミャンマーが世界的注目を集めていたものの、日本企業の進出はまだそれほど多くはありませんでした。

あるアマチュア無線家の存在

「一度行ってみよう」。ミャンマーへの現地視察がこうして決定しました。ところが、現地にまったくツテがない中、誰か助けてくれる人がいないかと人を探したところ、「長年ミャンマーと関わっている」という富山さんの存在を知ります。

高校教師だった富山さんとミャンマーを結びつけたのは1992年のことです。当時、アマチュア無線に熱心だった富山さんは、世界の中でアマチュア無線資格の相互運用協定が締結されておらず、かつそんな国で最初に運用したいという夢がありました。

当時、そんな未締結国が北朝鮮とミャンマーだったのです。富山さんはなんとかルートを確保できないかと模索していたところ、中国でアマチュア無線の国際会議が開催され、富山さんは日本代表団の一員として参加します。

そこで偶然、ミャンマーへの携帯電話網を展開していたノルウェーの友人と出会い、これがミャンマーへの活路を見いだしました。その後ミャンマー政府の招待状を取得して訪問、同国で最初の運用を開始しました。この出来事が、富山氏とミャンマーの運命的な出会いの始まりとなったのです。

その後、高校の校長で定年となった富山さんは、JICA(国際協力機構)のスペシャルアドバイザーとしてヤンゴンをたびたび訪れて技術協力に努め、現在でもミャンマーとの関わりを続けています。

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