その後も、日光山で行われた徳川家康150回忌の儀礼の奉行を任されたり、日光東照宮修造の指揮を任されたりと、大型プロジェクトには欠かせない人材として、武元は重宝されている。
家重に抜擢されるかたちで意次が頭角を現すと、協力して政務にあたったようだ。将軍と諸大名の間で折衝役を務めた意次を頼り、随所で力を借りている。
宝暦12(1762)年、火事で江戸の上屋敷が焼けるわ、藩主の島津重豪と一橋家の娘・保姫との婚礼も控えているわで、財政的に困難になった薩摩藩が、幕府にお金を借りようとしたときのことである。
当初は、武元に内願書を出したが、その返事は「意次に頼むように」というものだった。意次がうまく取り計らったのだろう。薩摩藩には2万両の拝借金が認められている。
また、同年に秋田藩が、領内の鉱山における産出量が減少したため、幕府に拝借金を願い出たことがあった。このときは1万5000両の拝借金が許されたが、秋田藩の家老がそのお礼にと参上したのは意次のところだった。意次は当時、御用取次だったが、状況によっては、老中をもしのぐ影響力を持っていたということだろう。
その後、明和4(1767)年に側用人となった意次。2年後の明和6(1769)年には老中格に昇進して5000石の加増を受けたことは前述したとおりだが、同じ年に武元は伊豆国に7000石の加増を受けている。武元の仕事ぶりもまた、将軍から高く評価されていたことがわかる。
病気になっても辞めさせてもらえず
だが、仕事がデキる人の宿命でもあるが、武元はやや頼りにされすぎたらしい。
安永8(1779)年3月末に病のために、出仕できなくなると、武元は「職務を免除してほしい」と願い入れるも、聞き入れられなかった。4カ月後の7月にも、解職を願い出るが、「勝手掛はほかの老中に頼むから」となだめられて却下されている。
それでも体調は悪化する一方で、7月26日、在職中に67歳で死去している。経緯からして、過労がたたってしまったのであろう。
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