この大火事によって、神田橋にあった自身の屋敷も焼失することとなった意次だが、その後の活躍も目覚ましかった。
火事から半年後の明和9(1772)年8月には徳川家治の夫人の一周忌法会が行われたほか、翌年には家治の娘の万寿姫が亡くなり、その葬儀が行われたり、前将軍・家重の十三回忌法会が行われたりもした。それらの法事に関わる御用を意次が務めている。
そして安永5(1776)年4月に家治が日光東照宮に社参すると、意次もお供として同行。旗2本、槍25本、弓7張、鉄砲25挺、馬上10騎を率いながら、華々しい行列に加わっている。
意次が前将軍の家重の就任に伴い、本丸に仕えたのが、意次が25歳のときのこと。それから実に約30年の月日が流れた。意次としても「よくここまで出世したものだ」と感慨深いものがあったのではないだろうか。
だが、このときの意次はまだ老中の一人にすぎず、権勢を振るっていたわけではない。日光東照宮の社参には、同じく老中の松平輝高や松平康福も随行。そして、老中首座の松平武元も、意次の倍以上の先備えでお供に加わっていた。
松平武元は、意次と同じく家治が信頼した側近の一人である。どんな人物だったのか。
大型プロジェクトを仕切る辣腕ぶりを見せた
松平武元は上野国館林6万1000石の城主で、8代将軍の徳川吉宗に見込まれて、9代将軍の家重のもとで延享3(1746)年に西丸老中となり、その翌年に本丸老中に就いた。年齢としては意次よりも5歳年長となるが、意次が老中になったときに、武元はすでに20年以上、老中を務めていたことになるから大ベテランだ。その経験が買われて、明和元(1764)年からは老中首座に就いた。
田沼意次に比べると、語られることが少ない武元だが、徳川吉宗、家重、家治と3代の将軍に仕えただけあって、数々の任務を遂行している。
宝暦元(1751)年には、大御所の吉宗の葬儀を取り仕切り、その後に家治の将軍宣下でも実務を担当した。そんな働きが評価されたのだろう。その年に、武元は勝手掛老中に任命されている。
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