とても全員を説明する紙幅はないが、名簿順に少しだけ紹介すると、1人目の赤羽善治は60年代に九州電力の社長、会長を務めてきた財界人だ。福岡商工会議所会頭や福岡証券取引所理事長、日本経営者団体連盟常任理事を歴任してきた。
2人目の東龍太郎は厚生省(現厚生労働省)の元大物官僚である。医務局長から東京都知事に転身し、日本オリンピック委員会(JOC)委員長や国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、1964年の東京五輪開催に漕ぎつけた立役者として知られる。
3人目の西尾末広は民社党の前身である民主社会党初代委員長で、労働運動家でもあった。内閣官房長官や副総理まで務めた。
日本の権力中枢が集った組織
つまり日本会は日本の権力中枢が集った体制右翼組織といえた。現代でいえば、さしずめ日本会議のようなイメージだろうか。靖国信仰を掲げ、日本の再軍備を訴える自民党保守派の国会議員やその支持者たちの集う日本会議のメンバーほど過激ではないかもしれないが、メンバーの顔触れを見る限り、潜在力は日本会議より大きいように感じる。少なくとも新左翼の学生たちにはそう映ったに違いない。
元日大商学部教授の根田正樹に日本会について尋ねた。
「総調和運動という一つの保守の運動体があり、その主唱者であり、リーダーの一人に古田重二良がいたわけです。保守運動は終戦後の日本の大きな潮流となり、それは反共運動でもありました。古田先生はそうした流れのなか、佐藤栄作をはじめとした保守党のリーダーたちと強く結びついていった。靖国参拝ほど露骨でないにしろ、一つの反共社会運動、政党運動の組織といいかえていいかもしれません」
日本会の名簿には総裁の佐藤のほか、佐藤の実兄であり、60年安保闘争の混乱で首相の座を降りた岸信介の名もある。岸は世界基督教統一神霊協会(統一教会、現世界平和統一家庭連合)が結成した反共政治団体「国際勝共連合」の思想に感銘し、関係を深めていったと報じられてきた。
日本会の名簿には、岸の隣に厚生大臣や文部大臣を務めてきた自民党の灘尾弘吉の名も連なる。灘尾は戦前、内務省に入り、保健行政部門である衛生局調査課に配属された内務官僚だ。内務省は一部が厚生省に分割され、灘尾は内務・厚生官僚として戦中を過ごして終戦を迎えた。やはり日本会には保守色の濃い国会議員たちが集まっていたといえる。根田が振り返る。
「なぜか私には岸信介の記憶がありませんが、佐藤栄作さんとか、灘尾弘吉さんといった政治家たちと古田先生の結びつきは印象にあります。灘尾さんは戦後に文部大臣にもなりましたから、古田先生が私学助成などの制度づくりを働きかけたとき、灘尾さんの影響力に期待したのだと思います。私学と政治の結びつきは今よりずっと深かった。保守政治家たちはその頃とときを同じくし、統一教会なども利用していました。彼らにとって、私学も似たようなイメージだったのかもしれません」
(敬称略)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら