NY進出の一流寿司職人「超ハングリーになった」訳 伝統を守るモダニスト、中澤圭二氏の矜持

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江戸前の道への献身は、修行僧のようにスピリチュアルに見えるが、彼のキャリアにおける重要な決断の多くは、極めて現実的なものだった。彼が最初に寿司の厨房で働いたのは、働いていた鰻屋の約2倍の給料がもらえ、休日も多かったからだという。

自分の店を持つと、客に江戸前のメニューか、当時流行っていた新鮮なスタイルのメニューかを選ばせた。江戸前メニューのほうが売れた。1993年に新しい場所に移ってからは、もう一方のメニューはやめた。

26歳で自分の店をオープン

19歳のとき、父親が家を出て行った。中澤と双子の弟は母親を支えようとしたが、自分たちが育った家も含めてすべてを失った。

その危機が彼を成功に対して「超ハングリー」にさせたと中澤は言う。彼は自分を奮い立たせ、26歳だった1989年に最初のレストラン「すし匠さわ」をオープンさせた。

「ほかの日本の寿司職人に比べたら、とても早い」と野原真司は言う。野原は、東京の食のシーンの複雑さを東京を訪れる多くの記者に案内してきたことから、東京フィクサーとして知られている。伝統的に、見習いたちは「長い長い時間をかけて技術を学び、40代か50代になってようやく店を開く」と野原は言う。

中澤は1999年に『料理の鉄人』に出演し、森本正治との寿司対決に敗れて以来、日本でもよく知られるようになった。中澤が若かった頃、日本社会における寿司職人の地位は非常に低く、「地下10階に住んでいるようなもの 」だったという。婚約者の両親に挨拶に行ったときも、婚約者の両親は娘を寿司職人と結婚させることを3度も拒否したという。

最終的に中澤は彼女の両親に結婚式の招待状を渡した。その後、中澤は義理の両親が娘の選択を認めてくれるよう、成功させるために精一杯努力したという。

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