NY進出の一流寿司職人「超ハングリーになった」訳 伝統を守るモダニスト、中澤圭二氏の矜持

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マンハッタンにある「すし匠」でのインタビューに通訳を介して答えた中澤は、彼が寿司を学び始めた1970年代後半は、冷蔵技術の普及によって食通の期待は大きく変わっていたと話す。魚は新鮮であればあるほどいいという考え方があった。寿司屋の中には生きた魚介類を水槽で保存し、提供する直前に殺してしまうところもあった。

「水から上がったばかりの新鮮な魚はとても喜ばれた」と中澤は話す。「それから人々は、100年前に行われていたことが価値あることだと気づいた」

15歳で料理人の道へ

すし匠の仕事は午前9時前に始まり、その日の最初の納品が箱から出される。11月下旬のある朝、店の料理人の1人は生のシマエビの頭と殻を丁寧に剥き、塩水で洗い、白い身を昆布で挟んで昆布締めにしていた。

もう1人の料理人は、メヒカリをさばいていた。メヒカリは英語ではグリーンアイと呼ばれる魚で、その幅広の皿のような目の色にちなんでいる。グリーンアイは塩漬けにされ、味噌と酒粕に漬け込まれる。

メヒカリ(写真:Marissa Apler/The New York times))

その近くには、銀色の肌が水銀色に輝く、氷漬けの砂肝のボウルがあった。数分後、身は塩で揉まれ、米酢にさっと漬けられる。

中澤は15歳で東京の実家を出て、料理の仕事を学んだ。日本橋のビジネス街にある、昆布と塩と酢で魚を締めるという江戸前の製法を守っている老舗の寿司屋に入った。

「なぜこんなことをするのだろうと思った」と彼は振り返る。すぐに彼は、魚にそれほど手間をかけない別の店に移った。日本橋で何が行われていたのかを理解したのはもっと後のことで、江戸前の熟成・保存技術が、本来は食材を長持ちさせるためのものであったが、同時に味に深みを与えていたことを学んだ。

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