「秋田のクマ駆除」に"ブチ切れる人"なぜ増えた? 「クマを殺すな」と殺到する抗議に自治体も困惑
さらにネットの普及で目にするニュースの量が増えたことが、「印象や感覚優先で、他者への想像力や理解が後回し」という風潮を加速しました。
1つひとつのニュースを当事者の立場でじっくり考えるのではなく、自分の印象や感覚ですぐに判断を下す人が増え、中でも批判的なものほど瞬発的に発信されやすい傾向があります。
そのニュースに関する情報をそれなりに得て、自分なりに学んだうえでの印象や感覚であればいいのですが、瞬発的に抗議の声をあげる人々がそれをしていないのは明白。
特にネットニュースは「あまり考えずにコメントしてもいいもの」とみなされがちで、思い込みのような声が目立ちます。だから「他人の命を想像できずクマの命だけを考える」「生かして返せる方法は何かしらある」などと他人事になってしまうのでしょう。
ウシ、ブタ、ニワトリはいいのか
今回ネット上のコメントを見ていると、「ウシ、ブタ、ニワトリを食べている人が『クマを殺したらかわいそう』は矛盾している」という声が散見されました。
さらに「『かわいそう』と言うなら人間に危害を与えないウシ、ブタ、ニワトリのほうだろう」「畜産にかかわる人々はさまざまな思いを抱えながら日々命と向き合っている」などの声もありました。
これらの人々は「他者への想像力と理解がある」と言っていいのではないでしょうか。一方、もし犬や猫を飼ってかわいがっている人がクマに命の大切さを重ね合わせて抗議したのなら想像力が足りないように見えます。
たとえば今では少なくなりましたが、野犬が現れて愛犬や自分が襲われたときも同じことが言えるのか。ペットや人を襲うかもしれない野犬を殺処分しなければ誰が世話をして、誰がお金を負担するのか。本当の意味で抗議できるのは「私がやります」と責任を負える人だけなのかもしれません。
命をめぐる論争そのものはあってしかるべきものでしょうが、その前提として欠かせないのが、他者への想像力と理解。
個人差があるのは当然だとしても、当事者や主張が異なる人のこともいかに考えられるか。自分の主張に偏るほど対立が激しくなり、論争の本質からは外れていくだけに、「抗議するとしてもどんな姿勢で向き合うのか」が重要なのです。
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