推し活をやりすぎる人が「無能」に陥るリスク 人々が同調して美しいのは、演奏とダンスだけ
同調が生む悪の大きなものの1つは選挙のときの組織票であろう。日本では宗教信者を動員して投票を強引に左右させる。これがいかに政治を歪ませているか、もう明らかであろう。人々が同調して美しいものを生み出せるのは、演奏とダンスだけなのだ。
さて、偶像崇拝によって自分が無能になることの理由について、ドイツの哲学者エーリヒ・ゼーリヒマン・フロムは『正気の社会』でこう述べている。
「偶像崇拝では、人間は、自分のうちにある一部の性質を投射したものに頭をさげ、それに服従している。人間は、自分自身が生き生きした愛情と、理性の行為のひろがる中心だとは感じていない」(加藤正明・佐瀬隆夫訳)
では、たとえばアイドルの女性タレントを偶像的に崇拝している1人の男性の例ではどうなるか、次に見てみよう。
自分の中にもある魅力に気づかない
アイドルタレントのファンになっている、ある男性がその女性に見ているものは、はつらつとした美しさ、性的な魅力、きらきらとした躍動感、年齢にふさわしい無邪気さや強さ、才能の輝き、健気(けなげ)なひたむきさ、などたくさんあるだろう。
それを堪能(たんのう)したくて、コンサートや握手会にせっせと足を運ぶのだ。
彼が彼女に認めているそれらさまざまな魅力は、実は彼女のうちにだけあるものではない。
彼自身の中にもひとしくあるものなのだ。それを彼は彼女の中にのみ見て、彼女はすばらしい、唯一の存在だと感激しているのである。
彼がアイドルに感動するほど、彼自身はみじめになる。自分の内心にあるみじめさを押し隠すようになる。それはひそかに今の自分を否定することだ。そしていつまでたっても、彼女と同じものが自分の中にあるのに気づかないのである。
この状態は、自分そのものをのけものにしてしまうことだから、これが自己疎外と呼ばれるものなのだ。アイドルを崇拝するほどにかえって自己を疎外してしまうのである。つまり、自分をあるがままに経験しない状態におちいってしまう。
もし、彼がタレントにあこがれることなく、いつも自分自身のままでまっすぐに生きていたならば、自分の中にあるあらゆる能力や魅力を仕事や行動を通じて体感できていたはずだろう。しかし、彼はそれをしないのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら